瞑想を推奨しております。
ヨガスタジオを運営しておりますと、生徒さんからよくこのような質問をいただきます。
「先生、ヨガのポーズって全部でどのくらいあるんですか?」
「すべてのポーズをマスターするには、何年くらいかかりますか?」
その眼差しは真剣そのもので、まるで広大な図鑑のページをすべて埋め尽くしたいと願うコレクターのようです。
現代社会においては、知識やスキルを「数多く持っていること」が価値だとされていますから、ヨガに対しても同様のアプローチをとってしまうのは無理もないことかもしれません。
しかし、結論から申し上げますと、ポーズ(アーサナ)の数を追うことは、ヨガの道においてはあまり意味を持たないどころか、時として本質から遠ざかる「迷い道」に入り込む原因ともなり得ます。
今日は、ヨガのポーズの数にまつわる歴史的な背景と、現代人が陥りやすい罠、そしてヨガが本来目指している「瞑想」という静寂の境地について、少し深く、包括的にお話ししてみたいと思います。
もくじ.
神話的な数字:8400万というメタファー
まず、ご質問の「数」について、古典的な文献がどう答えているかを見てみましょう。
ハタ・ヨガの古典的な経典『ゲーランダ・サンヒター』や『ゴーラクシャ・シャタカ』には、驚くべき数字が記されています。
「アーサナ(ポーズ)は、生きとし生けるものの数と同じだけある」
「シヴァ神は8400万のアーサナを説いた」
8400万種類です。
もし毎日ひとつ新しいポーズを覚えたとしても、すべてをコンプリートするのに23万年かかります。
これは物理的に不可能な数字です。
では、なぜ古代のヨギたちはこのような数字を記したのでしょうか。
ここには深い哲学的、スピリチュアルな意味が込められています。
インドの宇宙観において、8400万という数字は「生命の転生(輪廻)のサイクル」や「全宇宙の生命形態の総数」を象徴しています。
つまり、ヨガのポーズとは、虫や鳥、獣、木々といった、この宇宙に存在するあらゆる生命の形(モールド)を自らの身体で模倣し、追体験することなのです。
犬のポーズ、猫のポーズ、鷲のポーズ、木のポーズ。
私たちはマットの上で、人間という枠を超えて、多様な生命のエネルギーを身体に通していきます。
そうすることで、自分という存在が孤立した個体ではなく、全宇宙の生命ネットワークの一部であることを知るのです。
ですから、8400万という数字は「無限」のメタファーであり、「ポーズを通じて宇宙全体と一体化せよ」というメッセージとして受け取るのが正解でしょう。
ちなみに、その中から人間にとって特に有益なものとして84種類が選ばれ、さらにハタ・ヨガの教典では十数種類から三十数種類が重要であると絞り込まれています。
ですから、現代の実践において何千種類ものポーズを覚える必要は全くございません。
現代社会と「ポーズ・コレクション」の病
しかし、現代のヨガシーンを見渡すと、どうしても「形」や「数」への執着が見え隠れします。
次々と新しいバリエーションのポーズが生み出され、難易度の高いアクロバティックなポーズがSNSで称賛される。
「私はこんな難しいポーズができる」
「私はインストラクターの資格をこんなに持っている」
これは、消費社会の論理がそのままヨガに持ち込まれている現象です。
資本主義社会は私たちに、「もっと(More)」を強要します。
もっと多くのモノを、もっと多くの情報を、もっと多くの承認を。
その延長線上で、ポーズさえも「所有(Have)」しようとしているのです。
「自分には何かが欠けている」という欠乏感を、ポーズを習得することで埋めようとする。
これは「スピリチュアル・マテリアリズム(精神的物質主義)」と呼ばれる、エゴの巧妙な罠です。
どれだけ難しいポーズができても、どれだけ多くの種類を知っていても、もし心が「私が、私が」とエゴで騒がしいままであれば、それはヨガではなく、ただのストレッチか体操に過ぎません。
形を追い求めることは、終わりのない競争に参加することです。
そこには安らぎはなく、いつか必ず老いていく肉体への恐怖と、他人との比較による疲弊が待っています。
私たちが目指すべきは、コレクションを増やすことではなく、たった一つのポーズの中に無限の深みを見出すことなのです。
本来の定義:「アーサナ」とは「座法」である
では、ヨガの経典における最重要テキスト『ヨガ・スートラ』では、アーサナはどう定義されているのでしょうか。
そこには、たった一言、こう書かれています。
“Sthira Sukham Asanam”(スティラ・スカム・アーサナム)
「アーサナとは、快適で安定した姿勢である」
驚くほどシンプルです。
ここには「体が柔らかいこと」も「逆立ちができること」も条件として書かれていません。
ただ、快適に、安定して座っていられること。
本来、「アーサナ」という言葉は「座る」という意味を持っています。
なぜ、座ることがそれほど重要なのでしょうか?
それは、ヨガの最終目的が「心の死滅(ニローダ)」、つまり瞑想状態に入り、三昧(サマディ)という解脱の境地に至ることだからです。
心を静めるためには、長時間、微動だにせず座り続ける必要があります。
しかし、腰が痛い、背中が張る、足が痺れるといった身体的な不快感(ノイズ)があると、心は身体に引っ張られてしまい、内側に集中することができません。
身体という「器」がひび割れていたり、歪んでいたりしては、瞑想という「水」を湛えることができないのです。
ですから、私たちが日々行っている様々なポーズ(前屈や後屈、ねじりなど)は、すべて「快適に長時間座れる身体を作るための準備体操」なのです。
身体の凝りをほぐし、歪みを正し、エネルギーライン(ナーディ)を通す。
そうやって、身体が透明になり、存在感が消えていくような状態を作る。
そのためにポーズがあるのです。
決して、サーカスのような曲芸をするためではありません。
身体という楽器のチューニング
イメージしてみてください。
あなたは素晴らしい音楽(瞑想)を奏でようとしている演奏家です。
そのために、自分の身体という楽器のチューニング(調律)をしています。
それがアーサナの練習です。
弦を張りすぎてもいけないし、緩すぎてもいけない。
丁寧に、丁寧に、身体の声を聴きながら調整していきます。
しかし、現代の多くの人は、この「チューニング」自体を目的化してしまっていないでしょうか?
いつまでもチューニングばかりしていて、肝心の演奏(瞑想)を始めない。
あるいは、いかに派手にチューニングするかを観客にアピールしている。
チューニングが終わったら、静かに楽器を構え、音のない音楽を奏で始めなければなりません。
ポーズの練習が終わったら、シャヴァーサナで休み、そして静かに座り、瞑想へと入っていく。
この流れこそが、ヨガのフルコースです。
ポーズだけを切り取って「ヨガをした」と言うのは、レストランに行ってメニュー表だけを見て帰ってくるようなものです。
非常にもったいないことでございます。
スピリチュアルなアドバイス:形を手放し、空(くう)へ
ここで、少し視点を上げて、スピリチュアルな側面からアドバイスをさせていただきます。
ヨガのポーズを深めていくプロセスは、人生そのものと似ています。
最初は、形にこだわります。正解を求め、他人と比べ、できない自分を責めます。
しかし、練習を続けていくと、ある時点でふと「形はどうでもいい」と思える瞬間が訪れます。
身体の動きと呼吸が完全に同期し、思考が止まり、自分が動いているのか、何かに動かされているのか分からなくなる感覚。
これを「動く瞑想(フロー)」と呼びます。
ポーズの数が10個だろうが100個だろうが、関係ありません。
たった一つの「タダーサナ(山のポーズ)」の中に、大地の安定と天への広がりを感じることができれば、それで十分なのです。
「一即多(いっそくた)」。一つの中にすべてがあるという東洋的な真理です。
もしあなたが今、ヨガの練習で行き詰まっていたり、現代社会の情報の波に溺れて苦しくなっていたりするなら、一度「増やす」ことをやめてみてください。
新しいポーズを覚えようとするのをやめる。
情報を入れるのをやめる。
自分を飾るのをやめる。
そして、ただマットの上で、一番シンプルなポーズをとり、その内側の感覚だけに意識を向けてみる。
身体の重み、呼吸の音、皮膚の感覚。
そこには「良い・悪い」の判断はありません。
ただ「在る」という事実だけがあります。
最終的に、私たちはポーズさえも手放していきます。
肉体という枠組みを超えて、意識だけの存在へと溶けていく。
それが瞑想です。
瞑想とは、何か特別なビジョンを見ることではなく、自分自身が「空(くう)」であり、無限の広がりであることを思い出す作業です。
結論:日常というアーサナへ
ヨガのポーズの数は8400万あるかもしれませんが、あなたが本当に必要とするポーズは、実は一つだけかもしれません。
それは「今、ここ」に、くつろいで座るというポーズです。
マットの上だけでなく、オフィスの椅子でも、電車の座席でも、自宅のソファでも。
背筋を伸ばし、肩の力を抜き、呼吸に意識を向ける。
その瞬間、あなたはヨガをしています。
外側の形(ポーズ)にとらわれず、内側の静寂(瞑想)を大切にしてください。
ヨガは、身体を柔らかくするだけでなく、人生を柔らかくするための知恵です。
どうぞ、難しい顔をしてポーズをとるのではなく、内側で微笑みながら、ご自身の内なる宇宙を探求してください。
難しいポーズは必要ありません。ただ、そこに座るだけで十分なのですから。


