心を整えることを推奨しております。
それは、整えられた心こそが、私たちが持つ唯一の「本当の住処」だからです。
現代社会は、私たちの心を乱すための装置で溢れかえっています。
ポケットの中で鳴り止まない通知音、SNSで流れてくる他人の煌びやかな生活、電車内のディスプレイ広告、そして将来への漠然とした不安を煽るニュース。
私たちは起きている間中、外側からの刺激にさらされ、反応し続けています。
これでは、心が疲弊してしまうのも無理はありません。
多くの人が、この疲れを癒やすために「何か」を求めます。
美味しい食事、お酒、買い物、あるいは旅行。
それらの一時的な気晴らしも悪くはありませんが、それは根本的な解決にはなりません。
なぜなら、騒がしいのは外側の世界ではなく、それに反応して波立っている「自分の心」そのものだからです。
ヨガとは、本来「心の作用を死滅させること(ヨガ・チッタ・ヴリッティ・ニローダ)」と定義されます。
ポーズをとって身体を柔らかくすることは、そのための準備体操に過ぎません。
真のヨガとは、荒れ狂う思考の波を鎮め、その底にある静寂な湖面のような自分自身に出会う技術のことです。
今日は、マットの上だけでなく、日常のふとした瞬間に心を整えるための「5つの質問」をご提案します。
これは、自分自身へのインタビューであり、ヨガで言うところの「スヴァディヤーヤ(自己読解・聖典読解)」の実践でもあります。
心がざわついた時、この問いを自分に投げかけてみてください。
もくじ.
その感情を見ているのは、誰ですか?
不安、怒り、悲しみ。
強い感情が押し寄せてきた時、私たちはその感情と一体化してしまいがちです。
「私は怒っている」「私は悲しい」と、感情=自分になってしまうのです。
しかし、ヨガの哲学では、感情は「天気」のようなものであり、あなたという「空」そのものではないと考えます。
心が乱れた時、こう問いかけてみてください。
「今、この怒りを感じている私を、観察しているのは誰だろう?」
すると、不思議な感覚が生まれます。
「怒っている自分」と、それを「冷静に見ている自分」の二つが存在することに気づくはずです。
ヨガではこの観察する意識を「サクシ(目撃者)」と呼びます。
映画館のスクリーンを想像してください。スクリーンには悲劇や爆発シーンが映し出されていますが、スクリーン自体は燃えたり濡れたりしません。
あなたはスクリーンであり、感情はそこに映る映画に過ぎません。
この問いかけは、エゴと自分を切り離す強力なナイフとなります。
「ああ、私の心というスクリーンに、今は『不安』という映画が上映されているな」
そう客観視できた瞬間、感情の渦から一歩抜け出し、心にスペースが生まれます。
あなたは感情の奴隷ではなく、感情の主人なのです。
その「ねばならない」は、本当に必要ですか?
現代人は多くの義務感を背負って生きています。
「もっと成果を出さなければならない」
「良き親でなければならない」
「空気を読まなければならない」
「若く美しくあらねばならない」
これらの「ねばならない(Should)」は、多くの場合、社会や他者から刷り込まれた価値観であり、あなたの魂が本当に求めているものではありません。
心が重いと感じる時、それは不要な荷物を背負いすぎているサインです。
こう問いかけてみてください。
「この『ねばならない』を下ろしたら、私はどうなるだろう?」
おそらく、恐怖が湧いてくるでしょう。「人から嫌われるかもしれない」「置いていかれるかもしれない」。
しかし、その恐怖を直視した上で、もう一度問うのです。
「それは本当に、私の命を削ってまで守るべきルールなのだろうか?」
ヨガには「アパリグラハ(不貪)」という教えがあります。
これは、必要以上のモノや思考を所有しないことです。
他人の期待に応えようとする努力は、美しいようでいて、実は「他人から良く思われたい」というエゴの執着であることも多いのです。
その荷物を下ろしても、あなたはあなたとして、十分に完全な存在です。
むしろ、手放すことでしか得られない軽やかさこそが、あなたの本来の魅力となるでしょう。
それは「今、ここ」で起きていますか?
私たちが抱える悩みの9割は、「今」起きていないことです。
過去の失敗への後悔か、未来に起こるかもしれないトラブルへの不安。
つまり、心は常に「過去」か「未来」という、実在しない時間(幻影)の中をさまよっています。
心がざわついた時、深呼吸をして、こう問いかけてみてください。
「今、この瞬間、私の目の前で問題は起きているか?」
足の裏の感覚、呼吸の出入り、聞こえてくる音。
それらを感じてみれば、ほとんどの場合、「今、ここ」には何の問題もないことに気づくでしょう。
ただ静かな部屋があり、呼吸をしている自分がいるだけです。
問題は、あなたの頭の中にある「思考のシミュレーション」の中にしか存在しません。
ヨガの実践とは、「今」に錨を下ろすことです。
未来という幻想に怯えるのをやめ、過去という亡霊を追いかけるのをやめ、ただこの瞬間の呼吸に戻ってくる。
「今」には、苦しみはありません。
あるのは、ただの事実と、静寂だけです。
思考がタイムトラベルを始めたら、何度でも優しく連れ戻してあげてください。
私は何をコントロールしようとしていますか?
人間関係のトラブルや、仕事のストレスの多くは、「自分の思い通りにならないこと」への抵抗から生まれます。
「あの人はこう動くべきだ」「天気が晴れるべきだ」「計画通りに進むべきだ」。
しかし、世界は本質的にカオス(混沌)であり、他人も自然も、あなたのコントロール下にはありません。
イライラしたり、焦ったりした時、こう問いかけてみてください。
「私は今、コントロールできないものを、無理やりコントロールしようとしていないか?」
川の流れを逆流させようとすれば、莫大なエネルギーを浪費し、疲弊します。
エゴは「支配」を好みますが、魂は「委ねる」ことを知っています。
ヨガではこれを「イシュヴァラ・プラニダーナ(自在神への祈念・降伏)」と呼びます。
宗教的な意味合いを超えて、これは「大いなる流れ(宇宙の理)を信頼し、降伏する」という態度のことです。
コントロールを手放すことは、敗北ではありません。
むしろ、小さなエゴの力で泳ぐのをやめ、大きな流れに乗ることです。
「なるようになる」と腹を括った時、不思議と物事はスムーズに展開し始めます。
握りしめている拳を開いてみてください。そこには何もありませんが、同時にすべてを受け入れる準備が整います。
もし明日死ぬとしたら、これは重要ですか?
最後にして、最も強力な質問です。
私たちは普段、自分には無限の時間があるかのように錯覚して生きています。
だからこそ、些細なプライドや、どうでもいい世間体、小さな損得勘定に心を奪われます。
しかし、ヨガの行者は常に「死」を友として生きています。
死を意識することで、生の輪郭が鮮明になるからです。
どうしても許せないことがあったり、迷ったりした時、こう問いかけてみてください。
「もし明日、私の人生が終わるとしたら、この悩みは重要だろうか?」
上司の機嫌、SNSの「いいね」の数、隣人の噂話。
死という圧倒的な現実の前では、これらは霧のように消え去ります。
そして後に残るのは、「今日、私は誰かに優しくできただろうか」「私は今日、美しい空を見上げただろうか」「私は自分自身を生ききっただろうか」という、本質的な問いだけです。
「死」の視点を持つことは、究極の断捨離です。
どうでもいいことを即座に見極め、本当に大切なことだけにエネルギーを注ぐためのフィルターとなります。
ネガティブなことではなく、これほどポジティブで、私たちを自由にしてくれる問いはありません。
明日死ぬと思って生きる人は、今日を適当に生きるのではなく、今日を強烈に、そして丁寧に味わい尽くすはずです。
終わりに:問いかけは、静寂への扉
これら5つの質問は、答えを出すことが目的ではありません。
問うことによって、思考の暴走に一時停止ボタンを押し、内側にスペースを作ることが目的です。
最初は、すぐにエゴが反論してくるかもしれません。
「そんなこと言ったって、現実は厳しいんだ」と。
それでも、根気よく問い続けてみてください。
それは、硬く絡まった心の結び目を、一つひとつ丁寧にほどいていく作業です。
誰もあなたの心を代わって整えることはできません。
どんな偉大なグル(指導者)も、あなた自身の内観の代わりにはなれません。
あなたの心を救えるのは、あなた自身の「気づき」だけです。
もし、一人で向き合うのが難しければ、いつでもこの縁側にいらしてください。
ここでは、何かを教えるというよりも、あなたがあなた自身の問いと向き合うための静かな時間と場所を提供しております。
ただ座り、呼吸し、問う。
そのシンプルな営みの先に、揺るぎない平穏が待っています。
ではまた。


