ふと、口を開いて「あ」と声を出してみる。
ただそれだけのことに、実は宇宙のすべてが含まれているとしたら、どう感じるでしょうか。
私たちは普段、あまりにも多くの言葉を使いすぎています。意味を伝達するためのツールとして言葉を酷使し、その「音」自体が持つ根源的な響きを忘却してしまっている。今日は少し肩の力を抜いて、密教の瞑想である「阿字観(あじかん)」を入り口に、シンプルに身体を緩めることについて考えてみましょう。
EngawaYogaでは常々お伝えしていますが、修行とは苦行ではありません。むしろ「抜苦与楽(ばっくよらく)」、苦しみを抜き、楽を与えることこそが本質なのです。眉間に皺を寄せて座るのではなく、まずは縁側でお茶でもすするかのように、リラックスしてください。
「あ」という一音の哲学
阿字観とは、弘法大師空海が伝えた真言密教の瞑想法のひとつです。サンスクリット語の「ア(阿)」という文字を見つめ、あるいは心に描き、その音を唱えることで、大日如来(宇宙の真理そのもの)と一体化することを目指します。
井筒俊彦氏は、その著書の中で「意味論的深層」について語りますが、「あ」という音は、あらゆる言葉が生まれる前の「原点」であり、すべての母音の母です。口を自然に開けば出る音。それは「無」から「有」が生じる瞬間の響きとも言えます。ケン・ウィルバーのインテグラル理論で言えば、この「原初の音」は、物質圏、生命圏、心圏すべてを包摂する「非二元(ノンデュアル)」の領域へと私たちを誘うポータルなのです。
しかし、難しい理屈は一旦脇に置きましょう。重要なのは、この「あ」を感じている時の「身体感覚」です。
緩むことが瞑想の始まり
「瞑想がうまくいかない」という人の多くは、身体が緊張しています。「集中しなければ」「無にならなければ」というエゴの緊張が、身体を強張らせ、気の流れ(プラーナ)を阻害しているのです。
老荘思想に「無為自然(むいしぜん)」という言葉があります。作為を捨て、あるがままに任せること。これは単なる怠惰ではありません。身体の不要な力を抜き、重力に身を委ね、骨格で座る。すると、呼吸が深くなり、自律神経が整い始めます。
阿字観の実践においても、まず必要なのは「緩むこと」です。
吐く息とともに、肩の荷を下ろす。
今日あった出来事、明日への不安、それらすべてを「あー」という音の振動に乗せて、体外へ流し出すイメージを持ってください。
身体が緩むと、不思議なことに心も緩みます。身体と心は別々のものではなく、ひとつのシステムの裏表だからです。身体論的に言えば、筋肉の弛緩は、脳の緊張解除への直接的なシグナルとなります。
シンプルであることの強さ
私たちは複雑さを「高度なこと」と勘違いしがちです。しかし、真の強さとは、しなやかでシンプルです。
阿字観は、究極のシンプルさを持っています。「あ」という一字にすべてを集約させるからです。
現代社会はノイズに溢れています。何を選び、何を捨てるか。その決断疲れから解放されるためには、一度、すべてを「一(いつ)」に戻す必要があります。それが「あ」です。
ただ座り、ただ声を出す。
そこに「私」という主語はいりません。ただ「音」があるだけ。
この境地において、私たちは「個」という狭い檻から解放され、世界との境界線が溶け合う感覚を味わいます。これを「入我我入(にゅうががにゅう)」と言います。仏が我に入り、我が仏に入る。つまり、宇宙と自分がシンクロする感覚です。
これを日常に落とし込むなら、「最高のパラレルと一致すると意図する」ことだと言い換えてもいいでしょう。リラックスして、本来の自分(仏性)にチューニングを合わせる。そうすれば、現実は自然と整っていきます。
気楽になりましょう。
ただ、口を開いて「あ」と言う。
そこから、あなたの新しい世界が始まります。



