「瞑想をしましょう」と静かに目を閉じると、かえって普段より思考が活発になり、頭の中が騒がしくなってしまう。これは、瞑想を志すほとんどの人が経験する、最初の壁と言えるでしょう。私たちは「思考を止めなければ」と焦り、その思考と格闘しようとします。しかし、それはまるで、荒れ狂う波に正面から逆らって泳ごうとするようなもので、もがけばもがくほど、エネルギーを消耗し、波に飲み込まれてしまいます。
ここで、ヨガや仏教の叡智は、私たちに全く異なるアプローチを提示します。「思考を止めるな。戦うな。ただ、観よ」と。そして、その激しい思考の波を乗りこなすための、究極の道具を授けてくれます。それが、「呼吸の観察」という名の、シンプルで美しいサーフボードです。
この実践の根底にあるのは、ヴィパッサナー瞑想の中核をなす「あるがままに観る」という姿勢です。良い思考も、悪い思考もない。心地よい呼吸も、浅い呼吸もない。ただ、今この瞬間に生じている現象を、一切の判断や評価を加えることなく、客観的な観察者として静かに見つめるのです。
なぜ、呼吸がサーフボードになり得るのでしょうか。それは、心(思考)と呼吸が、切っても切れない深い関係で結ばれているからです。心がざわつけば呼吸は乱れ、心が穏やかならば呼吸もまた穏やかになります。この相関関係を逆手に取るのです。思考そのものを直接コントロールするのは至難の業ですが、呼吸は私たちの意識的なコントロールが及ぶ領域です。
実践は、ただ座り、意識を鼻の入り口、あるいは下腹部のあたりに置くことから始まります。そして、息が身体に入ってくる感覚と、出ていく感覚を、ただひたすら感じ続けます。その最中に、必ず思考が湧き上がってきます。「今日の夕飯どうしよう」「あの仕事は大丈夫だろうか」。その時が、稽古の最も重要な瞬間です。
思考が湧いたことに気づいたら、自分を責めることなく、ただ「あ、考えたな」と、心の中で優しくラベルを貼ります。そして、その思考を追いかけもせず、追い払いもせず、そっと手放して、再び注意を呼吸の感覚へと戻してあげるのです。まるで、ホームベースから少し離れてしまった意識を、優しくホーム(呼吸)へと連れ戻すように。
この稽古は、「私」と「私の思考」を同一視する、私たちの根深い習慣を解きほぐしていくプロセスです。私たちは普段、「私が考えている」と信じて疑いません。しかし、この観察を続けるうちに、思考とは、空に浮かぶ雲のように、ただ勝手に現れては消えていく現象に過ぎないこと、そして、本当の「私」とは、その雲の動きを静かに眺めている、広大で揺るぎない青空のような存在であることに、体感的に気づき始めます。
思考は敵ではありません。それは、あなたの心の海に立つ、自然な波です。あなたの仕事は、波を消すことではなく、ただ「呼吸」という名のサーフボードの上に乗り続けること。それだけで、あなたは思考の波と戯れ、そのエネルギーさえも乗りこなす、心のサーファーへと変容していくことができるのです。


