ー敷かれたレールの上を走る安心感と、その退屈ー
私たちは、本能的に「不確実性」を嫌います。未来がどうなるかわからない、という状態は、私たちの脳にストレスを与え、不安を掻き立てます。だからこそ、私たちは、人生をできる限り予測可能で、コントロール可能なものにしようと、懸命に努力します。安定した職業に就き、綿密な将来設計を立て、日々の生活をルーティンで固める。これらの行為は、私たちに、荒波の人生航路における、一時の「安全」と「安心」を与えてくれるように見えます。
しかし、この予測可能性という名の港に、あまりにも長く停泊しすぎてはいないでしょうか。安全な航路図、すなわち、社会や他人が用意した「こう生きるべきだ」というレールの上を走り続ける人生は、確かに大きな失敗はないかもしれませんが、そこに、魂が震えるような驚きや、予期せぬ発見、そして、生きていることの生々しい実感はあるのでしょうか。
今日、私たちは、この「安定」や「予測可能性」という、私たちが固く握りしめてきた価値観を、一度ゆるめてみることを試みます。それは、人生に混沌や無秩序を招き入れるということではありません。むしろ、人生が本質的に、私たちのコントロールを超えた、神秘的で、予測不可能なダンスであることを受け入れ、その不確実性そのものを、創造性と喜びに満ちた源泉として、積極的に味わい直すための、視点の転換です。完璧に計画された脚本通りの演劇よりも、即興で展開されるジャズセッションの方が、時に、遥かに面白いのと同じように。
リーラという、宇宙の戯れ
インドのヒンドゥー教思想には、「リーラ(Līlā)」という、極めて豊かで示唆に富んだ概念があります。リーラは、サンスクリット語で「遊び」や「戯れ」を意味し、この宇宙の創造、維持、破壊といった森羅万象はすべて、至高の存在(ブラフマン)が、特に目的もなく、ただ喜びのために行っている「聖なる遊戯」であると見なします。
この宇宙観は、私たちの西洋的な、目的論的な世界観とは大きく異なります。西洋思想では、世界は何らかの最終的な目標に向かって、直線的に進歩していくものとして捉えられがちです。しかし、リーラの思想によれば、人生には、達成すべき究極のゴールなど、そもそも存在しないのかもしれません。人生とは、結果を出すためのシリアスな事業ではなく、そのプロセス自体を楽しむための、壮大な遊びの舞台なのです。
この視点に立つと、私たちの人生で起こる、一見するとネガティブで、計画外の出来事(失敗、病気、別れなど)もまた、この宇宙の戯れの、一つのスリリングな展開として、捉え直すことが可能になります。予測不能なハプニングは、人生の脚本の「間違い」ではなく、物語をより面白く、深くするための、神が仕掛けた巧妙な「スパイス」なのかもしれません。
私たちが人生を完全にコントロールしようとすることは、この聖なる遊戯のルールを無視し、「自分の思い通りにしか遊ばない」と駄々をこねる子供のようなものかもしれません。握りしめた計画を手放し、宇宙という偉大な遊び相手が、次にどんなカードを切ってくるのかを、好奇心をもって待つ。そのとき、私たちは、不安の代わりに、冒険の始まりのような、静かな興奮を感じることができるはずです。
セレンディピティが生まれる土壌
予測不可能な出来事を受け入れる態度は、私たちの人生に「セレンディピティ(Serendipity)」、すなわち「幸運な偶然の発見」をもたらすための、肥沃な土壌となります。歴史上の多くの偉大な科学的発見や、芸術作品は、計画的な研究や制作の過程からではなく、全くの偶然や、失敗から生まれています。
例えば、ペニシリンの発見は、細菌学者アレクサンダー・フレミングが、実験室のシャーレを片付け忘れたことから、偶然、アオカビが細菌の増殖を抑えることに気づいたのがきっかけでした。もし彼が、完璧な計画と手順に固執し、この「失敗」を単なる汚染としてすぐに洗い流してしまっていたら、医学の歴史は大きく変わっていたでしょう。
セレンディピティは、私たちの人生においても、常に起ころうとしています。しかし、そのためには、二つの条件が必要です。第一に、計画から逸脱する「偶然の出来事」が起こるための、ある程度の「余白」や「遊び」が、私たちの生活にあること。そして第二に、その偶然が目の前に現れたときに、それが持つ可能性に気づき、掴み取るための、心の「柔軟性」と「開放性」です。
日々のスケジュールを分刻みで埋め尽くし、常に最短距離で目標に向かって突き進むような生き方では、この幸運な偶然が入り込む隙間はありません。道を間違えたり、寄り道をしたり、目的もなくぶらぶらしたりする時間の中にこそ、セレンディピティの種は隠されているのです。予測可能な人生を求めることは、この人生最大の贈り物を、自ら拒絶する行為に他なりません。
不確実性に耐える力:ネガティブ・ケイパビリティ
予測不可能な人生を受け入れるためには、ある種の精神的な強さが必要となります。それは、答えがすぐに出ない、白黒はっきりしない、宙ぶらりんな状態に、慌てずに留まることのできる能力です。詩人のジョン・キーツは、この能力を「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative Capability)」と名付けました。
私たちは、わからないことがあると、すぐに安易な答えや、単純な結論に飛びついて、不確実性という居心地の悪い状態から逃れようとします。しかし、本当に深い洞察や、創造的な解決策は、この「わからない」という霧の中で、じっと耐え、物事が熟すのを待つ時間の中からしか生まれてきません。
人生もまた、同じです。私たちは、自分の人生の「意味」や「目的」を、性急に定義づけようとします。しかし、もしかしたら、人生の意味とは、最初から与えられているものではなく、予測不可能な出来事の連続を、後から振り返ったときに、初めて浮かび上がってくる物語のようなものなのかもしれません。
ネガティブ・ケイパビリティを育むことは、この「意味の保留」に耐える訓練です。それは、人生という壮大なミステリー小説の結末を、最後のページまで知ることなく、一章一章、ハラハラしながら読み進めていく楽しみを、自分に許すことなのです。
即興演奏家として生きる、今日の実践
今日、私たちは、人生の脚本家であることをやめ、即興のジャズプレイヤーとして、一日を生きてみることを試みます。
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「ノー・プラン・デー」の一部を設ける
一日すべてを計画なしで過ごすのが難しい場合は、数時間でも構いません。その時間は、「何をすべきか」ではなく、「今、何をしたいと感じるか」という、内なる声に耳を澄ませて行動します。それは、普段は通らない道を散歩することかもしれないし、ふと気になった古本屋に立ち寄ることかもしれません。 -
予期せぬ出来事を「ギフト」として受け取る
今日、何かあなたの計画を狂わせるような出来事が起こったら、いつものように「最悪だ」と反応する代わりに、心の中で「お、きたか。これはどんなギフトだろう?」と呟いてみてください。電車が遅れたら、プラットフォームで人間観察をする時間が生まれた。会議がキャンセルになったら、思索にふける時間ができた。この視点の転換は、ストレスを好奇心へと変える魔法です。 -
「イエス、アンド…」の精神
即興演劇の世界には、「Yes, and…」という黄金律があります。これは、相手がどんな突飛な設定やセリフを投げかけてきても、それを否定せず(Yes)、さらにそれに自分のアイデアを付け加えて(and…)、物語を発展させていくというルールです。人生があなたに投げかけてくる予期せぬ出来事に対しても、この精神で応じてみましょう。それを拒絶するのではなく、まずは受け入れ、そこからどんな面白い展開を創り出せるか、遊んでみるのです。
予測可能な人生という、堅く握りしめた幻想を手放すことは、恐怖を伴うかもしれません。しかし、その手を開いたとき、あなたは、人生が、コントロールすべき対象ではなく、共に踊るべきパートナーであることに気づくでしょう。そして、その予測不可能なステップの中にこそ、私たちが本当に探し求めていた、生きることの、目が覚めるような喜びが隠されているのです。


