私たちは皆、知らず知らずのうちに、一人の主人公を演じています。その主人公の名前は「私」。この「私」は、過去の記憶、未来への期待、成功と失敗の経験、他者からの評価、そして自らが課した役割のすべてを寄せ集めて創り上げた、壮大な物語の登場人物に他なりません。私たちはこの物語に深く没入し、その脚本通りに一喜一憂し、苦しみ、そして時には喜びます。この自我、インド哲学でいうところの「アハンカーラ(我慢)」こそが、私たちを本来の自由な意識から切り離し、分離と欠乏の感覚を生み出す根源なのです。
ヨーガ・スートラは、苦しみの原因を「アヴィディヤー(無明)」、すなわち真実を知らないことにあると説きます。その無明から生まれるのが、このアハンカーラです。私たちは、変化し続ける思考や感情、そして肉体を「私」であると固く信じ込み、その儚い自己イメージを守るために膨大なエネルギーを費やしています。仏教が説く「無我」の教えもまた、この固定的で実体的な「私」という存在は幻想であると見抜いています。それは、あたかも川の流れを指して「これが川だ」と特定しようとするようなもの。次の瞬間には、その水はもうそこにはないのです。私たちの意識もまた、絶えず流動する現象の連続体に過ぎません。
では、「私」という物語を終わらせるとは、自己を消滅させることなのでしょうか。決してそうではありません。それは、物語の主人公を演じるのをやめ、その物語全体を静かに眺める「観客」あるいは「作者」の視点に立つことを意味します。瞑想の実践は、この視点の転換を促すための絶好の稽古となります。湧き上がる思考を「私の思考」と捉えず、「ただの思考」として観察する。こみ上げる感情を「私の感情」と握りしめず、「ただのエネルギーの波」として感じ、通り過ぎるに任せる。この修練を重ねることで、私たちは思考や感情と自己との間に、健全な距離、いわば「遊び」の空間を創り出すことができるようになります。
この空間が生まれた時、私たちは人生で起こる出来事を、もはや個人的な攻撃や悲劇として受け止めなくなります。それはただ、壮大なスクリーンに映し出される一つのシーンに過ぎない、と。この客観的な視座こそが、私たちを感情の奴隷から解放し、真の自由をもたらしてくれるのです。
「私」という特定の役割に縛られていた時、私たちの可能性は、その物語の脚本によって限定されていました。しかし、その物語が終わる時、私たちは何者にでもなれる無限の可能性そのものへと還っていきます。それは空虚な無ではなく、すべての存在の源である純粋な意識、ヴェーダーンタ哲学でいう「アートマン(真我)」との再会に他なりません。物語の主人公としての「私」が死ぬ時、普遍的な生命としての「自己」が、その本当の姿を現し始めます。それは終わりでありながら、同時に、真の人生の始まりを告げる、静かで荘厳な祝祭なのです。


