私たちはこれまで、ヨガ的な引き寄せの法則を学ぶ長い旅を続けてきました。呼吸を整え、心を観察し、意図を放ち、宇宙の流れに乗る。様々な技術や智慧を学び、望む現実を創造する力を育んできました。しかし、この旅の最終地点、最も奥深い聖域にたどり着くためには、最後に一つだけ、最も大切で、そして最も手放しがたいものを手放す必要があります。それは、「何かを引き寄せたい」という、その思いそのものです。
これは、一見すると矛盾に満ちた、逆説的な教えに聞こえるかもしれません。引き寄せの法則を学んできたのに、最後にその目的自体を手放すとは、どういうことなのか。しかし、この最終的な手放しにこそ、真の豊かさと自由への扉を開く、究極の鍵が隠されているのです。
「引き寄せたい」という願いの奥深くを、静かに見つめてみてください。その根底には、多くの場合、「今の私には、それがない」という、微細な、しかし強力な「欠乏感」が潜んでいます。豊かさを引き寄せたいのは、今が豊かではないと感じているから。パートナーを引き寄せたいのは、今、孤独を感じているから。この「ない」という欠乏の波動は、宇宙の法則に従って、皮肉にもさらなる「ない」という現実を引き寄せる磁石となってしまうのです。これが、引き寄せの法則における最大の罠であり、多くの人がつまずく点です。
また、「こうでなければならない」という特定の未来への強い執着は、宇宙の無限の可能性を狭めてしまうことにも繋がります。それは、宇宙という名の天才的なシェフに対して、「この食材とこの調理法で、この料理を作ってください」と細かく注文を出すようなものです。もし、その注文を一切手放し、「シェフのおまかせで、最高の料理をお願いします」と全幅の信頼を置いて委ねることができたなら、私たちは自分の貧しい想像力をはるかに超えた、驚くべきご馳走を味わうことができるかもしれません。
この最終的な委ねは、パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』が説く八支則の第二段階、ニヤマ(勧戒)の最後の項目である「イーシュワラ・プラニダーナ」の教えと完全に一致します。イーシュワラ・プラニダーナとは、「自在神への献身」あるいは「大いなる存在への完全なる明け渡し」を意味します。それは、「私の小さなエゴの計画ではなく、宇宙の偉大な計画が、私を通して為されますように」という、完全なるサレンダー(降伏)の祈りです。
この境地は、古代中国の道教が説く「無為自然」の思想にも通じます。作為的な努力や計らい(有為)をやめ、ただ宇宙の根源的な流れである「道(タオ)」に身を任せる時、万物は自ずから然るべき状態に整っていく、という教えです。何もしないこと、求めないこと。その静かな在り方の中にこそ、最大の力が宿っているのです。
では、具体的にどうすればよいのでしょうか。まず、あなたの意図や願いは、一度、明確に、心を込めて宇宙に放ちます。それは、空に手紙をつけた風船を放つようなものです。そして、放った後は、その風船の行方を追いかけるのをやめる。そのことを、心地よく「忘れる」のです。結果への執着を手放し、ただ、今この瞬間に在ることに集中する。目の前のダルマ(役割)を、愛と喜びをもって淡々と実践する(カルマヨガ)。
その時、奇跡が起こります。
何も求めなくなった時、あなたは、すべてがすでに与えられていたことに気づくのです。
愛を外側に探すのをやめた時、あなたの内側が愛そのものであることを知る。
豊かさを追い求めるのをやめた時、呼吸ができること、太陽の光を浴びられること、ただ存在していること自体が、無限の豊かさであると悟る。
本当の引き寄せとは、何かを外側から自分の元へと引っ張ってくるトリックではありません。それは、自分という存在が、もともと宇宙の豊かさや愛と一つであり、何も欠けてなどいなかったという、根源的な真実を思い出すための、内なる旅路なのです。
その旅の最後の扉を開ける鍵。それが、「引き寄せたい」という、最後の微細な欲望さえも、そっと手放す勇気です。それは、旅の終わりを意味するのではありません。それは、エゴが演じてきたドラマの終幕であり、真のあなたという存在が、無限の静けさと自由の中で、本当の人生を始めることを告げる、静かな鐘の音なのです。


