ヨガの道を歩む者が最終的に目指す境地として、古代の聖典『ヨーガ・スートラ』は「サマーディ(三昧)」という状態を提示しています。これは、パタンジャリが説いたヨガの八支則(アシュターンガ・ヨーガ)における第八段階であり、ヨガの旅の究極の目的地です。サマーディという言葉は、しばしば神秘的なベールに包まれ、常人には到達不可能な特別な意識状態として語られがちですが、その本質を丁寧に解き明かせば、それは私たちの意識が本来持っている、最も深く、統合された可能性の現れであることが分かります。
サマーディに至る道筋は、集中(ダーラナー)と瞑想(ディヤーナ)の自然な成熟の先にあります。まず、私たちは一つの対象(例えば、呼吸やマントラ、ロウソクの炎など)に意識を集中させる練習をします(ダーラナー)。この集中が努力なく、途切れずに続くようになると、それは瞑想(ディヤーナ)の状態へと深まります。そして、この瞑想がさらに深まり、瞑想している「私」という主観と、瞑想されている「対象」という客観、そして「瞑想する」という行為そのものの区別が完全に消え去った時、サマーディが訪れます。それは、主客が未分化の、完全なる一体化の体験です。
この状態を言葉で説明することは、蜜の味を知らない人にその甘さを説明するようなもので、本質的に不可能です。しかし、賢者たちは様々な比喩を用いて、その体験の質感を伝えようと試みてきました。それは、一滴の雨粒が大海に溶け込み、大海そのものとなるような体験。あるいは、壺の中の空間が、壺が壊れることで外の広大な空間と一つになるような体験。そこでは、時間と空間の感覚は消滅し、個としての「私」という境界線は溶け去り、残るのは、ただ純粋な存在、意識、そして至福(サット・チット・アーナンダ)だけであると言われます。
ヨーガ・スートラでは、サマーディにもいくつかの段階があると説かれています。最初は、まだ対象への意識が残っている「有想三昧(サンプラジュニャータ・サマーディ)」。そして最終的には、一切の対象が消え去り、意識がその源である純粋な状態に帰っていく「無想三昧(アサンプラジュニャータ・サマーディ)」です。これらは、個人の意識が宇宙意識へと段階的に溶け込んでいくプロセスを示しています。
ここで重要なのは、サマーディが現実からの逃避や、無意識状態への退行ではないという点です。むしろそれは、この上なく覚醒した、究極の集中状態であり、現実をありのままに、何のフィルターも通さずに知覚する意識状態です。自我(アハンカーラ)という色眼鏡が外れることで、世界の本当の姿、すなわちすべてが相互に繋がり合った、一つの生命のダンスであるという真実が明らかになるのです。
このサマーディの意識状態と、「引き寄せの法則」との関係は非常に興味深いものです。私たちが普段、何かを「引き寄せたい」と願う時、そこには「それを持っていない私」という欠乏感と、「それを手に入れたい」という分離感が前提として存在します。しかし、サマーディの状態では、この「私」と「それ」の分離そのものが消え去ります。あなたは、あなたが望むものと一つになるのです。もはや「引き寄せる」必要はありません。なぜなら、あなたはすでに「それ」だからです。このレベルで起こる願望の実現は、もはやエゴイスティックな個人の意図によるものではなく、宇宙の創造的な流れそのものが、あなたという媒体を通して現れ出たもの、と言えるでしょう。
サマーディは、ヒマラヤの洞窟で何十年も修行を積んだ聖者だけのものではありません。それは、私たちの意識の最も深い層に、可能性として常に存在しています。日々のアーサナや呼吸法、瞑想の実践は、この最も深い層へと至る道を、少しずつ、しかし着実に掃き清めていくための、地道で誠実な営みなのです。私たちは、その究極の目的地を知ることで、日々の小さな一歩に、より深い意味と方向性を見出すことができるのです。サマーディとは、何か特別なものになることではなく、あなたが本来のあなた自身に、完全に還ることなのですから。


