私たちは「知る」という行為を、ほとんどの場合、頭脳の働き、すなわち論理的な思考や分析、記憶の参照といったプロセスと同一視しています。学校教育からビジネスの世界に至るまで、評価されるのは主に、情報をいかに効率的に処理し、言語化し、合理的な結論を導き出すかという能力です。インド哲学の言葉で言えば、これは「ブッディ(覚)」と呼ばれる、識別し判断する知性の働きです。この知性は、私たちがこの複雑な世界を生き抜く上で不可欠な道具であることは間違いありません。しかし、ヨガや東洋の叡智は、人間にはもう一つ、まったく異なる種類の「知」が備わっていることを示唆しています。それは、思考を超えた、より根源的な「知」です。
この「超えた知」は、言葉や論理では捉えきれない、直接的で、全体的で、直感的な理解です。仏教ではこれを「般若(プラジュニャー)」と呼び、それは分別知(言葉で世界を切り分ける知)を超えた、物事の本質をありのままに見抜く叡智を意味します。思考が、過去の経験や知識というデータベースに基づいて未来を予測するコンピュータだとすれば、この「超えた知」は、宇宙という巨大なネットワークに直接接続し、今この瞬間に必要な情報をダウンロードするようなものです。
思考には、本質的な限界があります。それは常に、主観と客観、私とあなた、善と悪といった二元論的な枠組みの中でしか機能しません。また、思考は常に過去のデータに縛られています。そのため、真に新しい創造や、複雑な問題に対するブレークスルーとなるような解決策は、思考の回路をどれだけ高速で回転させても、なかなか生まれてこないのです。アインシュタインが「いかなる問題も、それが発生したのと同じ意識レベルで解くことはできない」と語ったように、私たちは時として、思考の土俵そのものから降りる必要があるのです。
では、どうすればこの「超えた知」と接触できるのでしょうか。その鍵は、思考の活動を意図的に静めることにあります。瞑想(ディヤーナ)は、そのための最も洗練された技法の一つです。瞑想が深まっていくと、思考と次の思考の間に、わずかな「隙間」が生まれます。それは、静寂の瞬間、空(くう)の空間です。そして、この思考の不在の空間から、インスピレーションや深い洞察、あるいは進むべき道を示す確信のようなものが、ふっと湧き上がってくることがあります。それは「考え出した」答えではなく、「やってきた」答えです。この時、私たちは思考を超えた、より広大な知性のフィールドに触れているのです。
また、この「知」は、頭だけで受け取るものではありません。私たちの身体は、それ自体が高度な知性を持っています。ある種の武道や芸事の達人たちが、考えるよりも速く、最適で美しい動きを生み出せるのは、長年の「稽古」を通じて、思考を介さない「身体知」を磨き上げているからです。彼らは頭で考えて動いているのではなく、身体が「知っている」のです。ヨガのアーサナの実践もまた、身体との対話を通じて、この言葉にならない知性を呼び覚ますプロセスと言えるでしょう。身体の感覚に深く注意を向けることで、私たちは思考の支配から解放され、より本質的なレベルで自分自身や世界を理解し始めます。
日常生活においても、私たちはこの「超えた知」の閃きを経験しています。シャワーを浴びている時や、散歩をしている時に、ずっと悩んでいた問題の解決策が突然ひらめく。初対面の人に会った瞬間に、理由なく「この人は信頼できる」と感じる。これらはすべて、論理的な思考プロセスを経ずに訪れる「知」の現れです。
大切なのは、思考という有能な道具を尊重しつつも、それを万能視しないことです。そして、思考の声を少し脇に置き、身体の感覚や、ふとした直感、心の奥底から響いてくる静かな声に耳を澄ます時間を意識的に作ること。思考が静まった時、あなたは、あなた個人の小さな知識をはるかに超えた、宇宙的な叡智の流れと繋がることができるのです。その時、あなたはもはや一人で人生の問題を解いているのではなく、宇宙全体があなたの味方となって、その答えを示してくれるでしょう。


