私たちは皆、何らかのユニークな才能や特技を持ってこの世に生を受けています。それは、美しい絵を描く能力かもしれませんし、複雑なデータを分析する知性かもしれません。あるいは、人の心を和ませるユーモアのセンスや、植物を育てる緑の指かもしれません。現代社会において、私たちはそうした才能を、個人的な成功や富、名声を得るための「私有財産」として捉えがちです。しかし、ヨガや東洋思想の深い叡智に触れる時、私たちは才能に対する全く新しい、そしてより豊かな視点を得ることができます。それは、あなたの才能や特技は、あなた個人の所有物ではなく、世界という共同体へ貢献するために、宇宙からあなたに「託されたギフト」であるという視点です。
この考え方は、才能を「公的なもの」として捉える視座に基づいています。あなたの才能は、真空の中で生まれたわけではありません。それは、あなたの祖先から受け継いだ遺伝的素質、あなたが育った環境、あなたが出会った人々、そしてあなたが学んだ知識という、無数の縁(えん)が織りなす広大なネットワークの中で育まれたものです。そうであるならば、その才能によって生み出された果実を、自分一人のものとして独占するのは、道理に合わないのではないでしょうか。むしろ、その才能は、あなたというユニークなフィルターを通して世界に還元されるべき「預かりもの」なのです。
この視点は、ヨガの教えである「アパリグラハ(不貪)」の精神と深く結びついています。アパリグラハとは、物質的なものを不必要に所有しないことだけでなく、地位や名声、さらには知識や才能といった無形のものにさえ執着せず、それらを独り占めにしないという教えです。自分の才能を、出し惜しみすることなく、世界と分かち合うこと。それは、アパリグラハの最も積極的で美しい実践と言えるでしょう。あなたが持つ知識を誰かに教える時、あなたが持つ技術で誰かを助ける時、あなたは宇宙のエネルギーの健全な循環を促しているのです。せき止められた水が淀むように、分かち合われない才能はその輝きを失いますが、分かち合われた才能は、関わる人すべてを豊かにし、あなた自身の元へも新たな形で還ってきます。
そして、何よりも重要なのは、私たちが自分の才能を他者や世界のために使う時、最も深いレベルでの喜びと充足感を感じるという事実です。なぜなら、その瞬間、私たちの魂は、本来の目的であるダルマを果たしているからです。エゴが求める自己満足を超えた、利他的な行為の中にこそ、真の自己実現の道はあります。それは、「私が何かをしてあげている」という傲慢さではなく、「私という存在を通して、何かが為されている」という、謙虚で満たされた感覚です。
私たちは、自分の才能を過小評価したり、「こんなものは大したことない」と謙遜しすぎたりする傾向があります。しかし、どんなに些細に見える才能も、それを必要としている人や場所が必ず存在します。あなたの温かい笑顔が、誰かの孤独な一日を照らすかもしれません。あなたの作る家庭料理が、疲れた家族の心と身体を癒すかもしれません。あなたが辛抱強く人の話を聞くことで、誰かが絶望の淵から救われるかもしれません。これらはすべて、金銭的な価値には換算できない、尊い世界への貢献なのです。
あなたの内に眠る才能は、世界という庭をより美しく、より豊かにするために、あなたに特別に託された魔法の種です。あなたの仕事は、その種が自分のものであると主張することではなく、それを大切に育て、水をやり、太陽の光を浴びせ、見事な花を咲かせ、豊かな実を結ばせることです。その花や実を、世界と分かち合うこと。それこそが、あなたに与えられた聖なる義務であり、同時に、あなたの人生を意味と喜びに満たす、最高の祝福なのです。


