私たちは「リーダー」という言葉に、特別な響きを感じます。先頭に立って旗を振り、人々を導き、ビジョンを示す力強い存在。多くのビジネス書や自己啓発セミナーが、いかにして優れたリーダーになるかを説き、私たちはその資質を身につけようと努力します。一方で、「フォロワー」という言葉には、どこか受動的で、主体性のないイメージがつきまといます。しかし、このような二元論的な捉え方は、物事の本質を見誤らせるかもしれません。ヨガや東洋思想の叡智は、リーダーシップとフォロワーシップは対立するものではなく、一つの全体を構成する補完的なエネルギーであり、真に成熟した人間は、状況に応じてこの二つの役割をしなやかに行き来できることを教えてくれます。
この関係性は、東洋思想の根幹をなす「陰陽」の思想で美しく説明できます。リーダーが人々を導く力強い「陽」のエネルギーだとすれば、フォロワーはそれを支え、場を安定させ、実現へと向かわせる受容的な「陰」のエネルギーです。光(陽)だけでは何も見えず、影(陰)だけでも何も見えません。光と影が織りなすことで、初めて世界の形が浮かび上がってくるように、優れたリーダーシップは、優れたフォロワーシップによって初めてその真価を発揮するのです。そして、最も重要なのは、この陰陽の関係が固定的ではないということです。月が満ち欠けするように、人もまた、ある場面では陽(リーダー)となり、別の場面では陰(フォロワー)となる、流動的な存在なのです。
ヨガのクラスを想像してみてください。インストラクターは間違いなくリーダーであり、クラス全体の流れを導きます。しかし、そのクラスの「場」の質を創り出しているのは、インストラクターだけではありません。そこにいる生徒一人ひとりの呼吸の深さ、集中力の度合い、アーサナに取り組む真摯なエネルギーが、見えないフォロワーシップとして場全体に影響を与えます。時には、最後列にいる一人の生徒の静かで深い集中力が、クラス全体の雰囲気を引き締め、インストラクターの言葉さえもインスパイアすることがあります。その瞬間、フォロワーは場の隠れたリーダーとなっているのです。
このような視点は、日本の武道や芸道における「稽古」の思想にも通じます。師(リーダー)と弟子(フォロワー)の関係は、一方が教え、他方がただ受け取るという一方通行のものではありません。優れた弟子は、ただ師の言うことを聞くのではなく、師の言葉の奥にある本質を汲み取ろうと能動的に働きかけ、時には鋭い問いを投げかけることで、師自身も気づいていなかった新たな知を引き出すことさえあります。つまり、フォロワーシップとは、決して「従う」ことではなく、リーダーの力を最大限に引き出し、全体のパフォーマンスを高めるための、高度で知的な技術なのです。
この流動的な役割を生きることは、エゴ(我執)を手放すための素晴らしい実践となります。「私は常にリーダーでなければならない」というこだわりは、他者の才能や意見を抑圧し、チーム全体の創造性を殺いでしまいます。逆に、「私なんてリーダーの器じゃない」という思い込みは、自分が貢献できる可能性を自ら閉ざしてしまいます。大切なのは、「今、この場で、全体の調和のために最も求められている役割は何か?」と自問し、その役割をエゴなく演じることです。
日々の仕事や家庭の中で、この稽古を意識的に行ってみましょう。
会議の場で、いつもは真っ先に発言するあなたが、今日は意識的にフォロワーシップに徹してみる。リーダーの発言の意図を深く汲み取り、それをサポートするような質問や意見を述べてみる。あるいは、誰かが困っている時に、さりげなく手を差し伸べ、その人が主役になれるような「舞台」を整える役割に徹してみる。
逆に、誰もが躊躇しているような場面で、勇気を出して「私がやりましょう」と一歩前に出てみる。完璧なリーダーである必要はありません。ただ、その場に必要な「陽」のエネルギーを供給する、という意識で行動すれば良いのです。
「引き寄せ」とは、個人の力だけで何かを手に入れることではありません。それは、自分を含む全体のエネルギーの流れを読み、その中で最も調和的な役割を演じることで、自然と物事が然るべき場所へと収まっていくプロセスです。リーダーシップとフォロワーシップという二元論を超え、状況に応じてその両方の仮面を軽やかに付け替えられるようになった時、あなたはどんな人間関係においても、調和と創造性を生み出す触媒のような存在となるでしょう。それは、特定のポジションを得ることよりも、はるかに豊かでパワフルな生き方なのです。


