もし私たちが、春にトマトの種を蒔いたとしたら、秋にカボチャが実ることを期待するでしょうか。おそらく、誰もそんなことは考えないでしょう。自然界において、蒔いた種と、そこから生まれる収穫物との間には、疑いようのない、まっすぐな繋がりが存在します。この自明の理を、私たちの人生全体へと拡張して捉えること。それが、カルマの法則を理解するための、最もシンプルでパワフルな第一歩です。
「原因と結果の法則」、あるいは「蒔いた種は必ず刈り取ることになる」という原則は、古今東西の多くの哲学や宗教で語られてきた、普遍的な真理です。仏教ではこれを「因果応報」と呼び、キリスト教の聖書にも「人の蒔くものは、その刈り取りもすることになる」という一節があります。これは、オカルト的な迷信や道徳的な脅しではなく、この宇宙を貫く、極めて論理的で公平なオペレーティングシステム(OS)のようなものだと考えてみてください。
このOSの第一の原則は、「すべての結果には、必ず原因がある」ということです。私たちの人生に偶然起こることなど、本当は一つもありません。今のあなたの健康状態、経済状況、人間関係、そして心の状態。そのすべては、過去のあなたが蒔いてきた無数の「種」が発芽し、成長した結果として、今ここに「収穫」されているものなのです。
では、その「種」とは、具体的に何を指すのでしょうか。ヨガや仏教の思想では、カルマの種は三つのレベルで蒔かれると考えられています。
一つ目は「身体的な行為(身業)」。誰かを助けるために行動することも、誰かを傷つけるために手を上げることも、明確な種蒔きです。
二つ目は「言葉による行為(口業)」。励ましの言葉も、誹謗中傷の言葉も、音の振動となって世界に放たれ、やがて相応の結果を伴って自分に返ってきます。
そして、最も重要で、かつ見過ごされがちなのが、三つ目の「心における行為(意業)」、すなわち私たちの「思考」や「意図」です。誰かの成功を密かに妬む心、未来に対する漠然とした不安、自分を卑下する思考の癖。これらは、たとえ外には現れなくとも、私たちの内なる畑に、確実にネガティブな種を蒔き続けているのです。逆に、他者の幸せを願う心、世界への感謝、自分自身への信頼は、最もパワフルな善き種となります。なぜなら、すべての身体的行為や言葉は、この「意業」という土壌から生まれてくるからです。
この法則を真に理解すると、私たちはもはや、自分の人生の責任を、他者や環境、あるいは「運」のせいにはできなくなります。自分の畑に雑草が生い茂っているのを、隣人のせいにする農夫がいないのと同じです。私たちは、自分の人生という畑の、唯一の管理人なのです。この事実は、人によっては重い責任と感じられるかもしれません。しかし、視点を変えれば、これほど力強い希望はありません。なぜなら、自分の畑の管理人であるということは、何を蒔くかを、今この瞬間、自分で選べるということだからです。
この法則は、良いことにも悪いことにも、公平に作用します。もしあなたが過去に、無意識のうちにネガティブな種を蒔いてしまったとしても、それは変えられません。しかし、その収穫を甘んじて受け入れつつ、今日から、意識的にポジティブな種、つまり感謝の思考、思いやりのある言葉、建設的な行動を蒔き始めることは可能です。そうすれば、未来のあなたの畑には、間違いなく、素晴らしい実りがもたらされるでしょう。
「蒔いた種は必ず刈り取ることになる」という法則は、私たちを縛る宿命論ではありません。それは、私たちが自らの手で未来を創造するための、最も信頼できる設計図であり、コンパスなのです。今日、あなたはどんな種を蒔きますか? その一つひとつの小さな選択が、未来のあなたという、かけがえのない収穫物を形作っていくのです。


