私たちが何かを望む時、ほとんどの人は即座に次の問いへと意識を移します。「どうやって(How)それを実現しようか?」。そして、計画を立て、戦略を練り、可能性のあるルートを必死に考え始めます。これは、私たちが教育や社会生活の中で深く刷り込まれてきた、論理的で、一見すると非常に賢明な思考プロセスです。しかし、創造の領域においては、この「どうやって?」という問いこそが、最大の足枷となることがあるのです。
考えてみてください。あなたの限られた経験と知識に基づいた脳が考えつく「方法」は、宇宙がその無限の叡智とリソースを駆使して用意できる「方法」に比べて、どれほど貧弱なものでしょうか。それは、地球のすべての道を知り尽くした最新のカーナビゲーションシステムを搭載しながら、わざわざ古い紙の地図一枚を頼りに、未知の目的地へ向かおうとするようなものです。
ヨガ哲学の根底には、「アヴィディヤー(無明)」という概念があります。これは、私たちが世界の真の姿を知らない、という根源的な無知を指します。私たちは、すべての人や出来事がどのように繋がり、影響し合っているのか、その全体像を見ることはできません。この「自分は知らない」という謙虚な自覚に立つ時、私たちは初めて、自分の小さな頭で考えるのをやめ、人智を超えた大いなる知性、つまり宇宙に助けを求めることができるようになります。
あなたの本当の仕事は、「どうやって(How)」を考えることではありません。あなたの仕事は、ただ一つ。「何を(What)」を明確にすることです。あなたは本当に何を望んでいるのか。どんな人生を体験したいのか。どんな感情を味わいたいのか。その「目的地」を、曇りのない心で、宇宙という名のカーナビに設定すること。それが、あなたの唯一にして最大の役割なのです。
「どうやって?」を考え始めると、様々な弊害が生まれます。まず、あなたは自分の思考が思いつく範囲の可能性しか信じられなくなり、宇宙が用意しているかもしれない奇跡的なショートカットや、思いがけない美しい回り道を、自ら閉ざしてしまいます。次に、「そんな方法はあり得ない」「資金が足りない」「人脈がない」といった、無数の「できない理由」が頭をもたげ、あなたの意図のエネルギーを削ぎ、不安と疑いを増幅させます。そして最後には、完璧な方法が見つかるまで行動できないという「分析麻痺」に陥り、貴重な一歩を踏み出せなくなってしまうのです。
禅の修行には「公案」というものがあります。「隻手の音声(せきしゅのおんじょう)」、つまり片手で拍手した時の音はどんな音か、といった、論理では決して解けない問いが与えられます。これは、修行者に論理的思考(どうやって?)の限界を自覚させ、それを超えたところにある直感的な気づき、すなわち「悟り」へと導くためのものです。創造のプロセスもまた、この公案に似ています。「どうやって?」という思考を手放した時、あなたは初めて、宇宙からのささやき、つまり「インスピレーション」という名の直感的な答えを受け取ることができるのです。
ですから、今日からこの練習を始めてみてください。「どうやって?」という思考が頭に浮かんでくるたびに、それに優しく気づき、「ああ、また宇宙の仕事に手を出そうとしていたな」と微笑んで、そっと手放すのです。そして、あなたの意識を再び、「何を」望むのか、そしてその望みが叶った時の「素晴らしい感覚」へと戻してください。
あなたの役割は、港を宣言すること。そこへどのような航路で、どのような船で、どのような天候の中を旅するかは、宇宙という名の、誰よりも経験豊かで、あなたを愛してやまない船長に、全幅の信頼を寄せて任せておけばよいのです。


