私たちは、「善行」という言葉に、どこか古めかしく、少しばかり気恥ずかしい響きを感じてしまうかもしれません。それは特別な誰かが行う英雄的な行為であり、慌ただしい日常を送る自分には縁遠いものだと。しかし、ヨガの叡智が指し示す「善行」とは、そのような大袈裟なものではありません。それは、私たちの日常に散りばめられた、ささやかで、そして誰にも気づかれないかもしれない親切な行為そのものの中に宿るのです。
この「見返りを期待しない行為」の神髄は、インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』に説かれる「カルマヨガ」の教えに集約されています。戦場で苦悩する王子アルジュナに対し、クリシュナ神は説きます。「あなたには行為そのものに対する権利がある。だが、その結果に対しては、いかなる時もない。行為の結果を動機としてはならない」。これは、現代を生きる私たちにとっても極めて重要な指針を示唆しています。私たちは常に行為とその結果をセットで考え、行動の前に「これをすれば、どんな得があるだろうか」「誰かが見ていてくれるだろうか」と損得勘定をしてしまいがちです。その思考の根底には、「認められたい」「評価されたい」という承認欲求や、「何かを得たい」という欠乏感が横たわっています。
カルマヨガの実践は、この「結果への執着」という心の鎖から、私たちを解き放つ稽古です。例えば、道に落ちているゴミを拾うとき。誰かが見ているから拾うのではなく、ただ、そこにゴミがあるから拾う。その行為自体が完結しており、それ自体が喜びである。この瞬間、あなたは「評価される自分」という小さな自己から解放され、ただ世界と調和しようとする、より大きな流れの一部となります。
この思想は、仏教における「布施」の精神とも深く共鳴します。布施には、金品を施す「財施」、教えを説く「法施」、そして人々の恐れを取り除き安心を与える「無畏施」があります。あなたが誰かに向ける優しい微笑み、不安な友人の話をただ黙って聴いてあげる時間、それらもまた、この上なく尊い「無畏施」なのです。東洋には古くから「陰徳を積む」という美しい思想があります。誰も見ていない場所で、誰にも知られることなく行う善い行いは、誰かの評価のためではなく、ただそれ自体として尊い。そして、その行為は誰の目にも触れずとも、あなたの内なる宇宙、あなたの潜在意識という土壌に深く、静かに刻み込まれていきます。
では、なぜこの「見返りを期待しない親切」が、結果的に「引き寄せ」に繋がるのでしょうか。それは、この行為があなたの「在り方」そのものを変容させるからです。
第一に、純粋な利他の精神からくる行為は、あなたの存在の周波数、いわゆる「波動」を純化させます。見返りを求める心は、欠乏と不安の低い周波数と共鳴しますが、見返りを求めない愛や親切は、豊かさや調和といった高い周波数と共鳴します。これはスピリチュアルな比喩であると同時に、私たちの心の状態が現実をどう認識し、構築するかに深く関わっているという、きわめて実際的な話なのです。
第二に、それは「私は与えることができる豊かな存在である」という自己認識を、細胞レベルであなたに教え込みます。「私には何かが足りない」という欠乏感から世界を見れば、世界は欠乏を映し返してくるでしょう。しかし、「私には分かち合うものがある」という充足感から世界と関われば、世界はさらなる豊かさをあなたの前に現し始めます。見返りを求めない親切は、この豊かさの循環を開始させる、最初の小さな一押しなのです。
最後に、それは「縁起」という世界の真理を体感させてくれます。あなたの放った一つの親切は、直接あなたに返ってくることはないかもしれません。しかし、その親切を受け取った人が、また別の人に親切にするかもしれない。そのようにして、あなたの行為は波紋のように世界に広がり、巡り巡って、世界そのものがあなたにとって、より温かく、より優しい場所として立ち現れてくるのです。それは、因果応報という単純なロジックを超えた、世界との共振と呼ぶべき現象です。
今日、何か一つ、誰にも気づかれなくてもよい、小さな親切を実践してみてください。それは、自販機の下に落ちた小銭を拾って置いてあげることかもしれませんし、SNSで誰かの素晴らしい投稿に心からの「いいね」を送ることかもしれません。その小さな行為が、あなたの内なる世界を静かに耕し、やがて豊かな実りを引き寄せる、最も確かな一歩となるのです。


