ニヤマの四番目に挙げられる「スヴァディアーヤ」は、ヨガの道を歩む上で、私たちに羅針盤と地図を与えてくれる、不可欠な実践です。この言葉は、文字通りには「スヴァ(自己)」の「アディアーヤ(学習・探求)」、すなわち「自己学習」と訳されます。また、伝統的には『ヴェーダ』や『ウパニシャッド』、『ヨーガ・スートラ』といった聖典を読誦することも意味します。しかし、スヴァディアーヤの本質は、単なる知識のインプットや暗唱にあるのではありません。それは、外なる賢者の言葉を手がかりとして、私たち自身の内なる声、内なる師と対話し、最終的には「自分自身」という最も深遠な書物を読み解いていく、生涯をかけた探求の旅なのです。
スヴァディアーヤには、大きく分けて二つの側面があります。一つは、外側への学びです。これは、パタンジャリや先人たちが遺してくれた、意識の地図とも言える聖典や、信頼できる師の教えに触れることを指します。なぜ私たちは苦しむのか、心の働きとはどのようなものか、解放への道筋はどこにあるのか。これらの普遍的な問いに対する答えのヒントが、そこには記されています。地図もなしに未知の森に分け入れば、道に迷ってしまうのは当然です。聖典を読むことは、自分の現在地を確認し、進むべき方向を見定め、道中の危険を避けるための、先人たちの知恵を借りる行為なのです。また、マントラのように神聖な言葉を声に出して唱えること自体が、その音の持つ波動によって、私たちの心を浄化し、意識を高い次元へと引き上げる力を持っているとされています。
そして、もう一つが、内側への学び、つまり自己探求です。これは、自分自身の心の動き、感情のパターン、行動の背後にある動機を、まるで科学者が観察対象を分析するように、冷静に、そして正直に見つめる実践です。ジャーナリング(日記をつけること)は、このための非常に優れたツールです。今日、なぜ私はあの人の言葉に苛立ったのか?その怒りの下には、どんな恐れや悲しみが隠されているのか?なぜ私は、いつも同じような場面で、同じ失敗を繰り返してしまうのか?このように、自分自身に深く問いを立て、その答えを書き出していくことで、私たちは無意識の領域に光を当て、これまで見えなかった自分の心の構造を、客観的に理解し始めます。
このスヴァディアーヤの実践を深めていくと、私たちはやがて、自分の中に二つの「私」が存在することに気づきます。一つは、感情の波に揺れ動き、思考の渦に巻き込まれる「経験する私」。そしてもう一つは、そのすべてを、ただ静かに、判断を下すことなく見つめている「観察する私」です。この静かな観察者こそが、ヨガが指し示す「内なる師(グル)」、あるいは真我(アートマン)の現れです。
この内なる師は、私たちを決して叱責したり、ジャッジしたりしません。ただ、ありのままの真実を、静かな光で照らし出してくれるだけです。私たちは、この内なる師の安全な眼差しのもとで、初めて自分の弱さや醜さをも含めた、ありのままの自己を正直に見つめ、受け入れる勇気を持つことができるのです。
引き寄せの法則の観点からも、スヴァディアーヤは決定的に重要です。なぜなら、自分が「本当に」何を望んでいるのかを知らないままでは、何を宇宙に注文すればいいのかも分からないからです。私たちの表面的な欲望(もっとお金が欲しい、有名になりたいなど)の奥には、しばしば、より本質的な魂の願い(安心したい、愛されたい、貢献したいなど)が隠されています。スヴァディアーヤは、この深層にある真の願いを発掘する作業です。
また、私たちは無意識のうちに、「私には価値がない」「どうせ成功するはずがない」といった、自己を制限する信念(メンタルブロック)を抱えています。このプログラムに気づかない限り、私たちは無自覚に、その信念通りの現実を引き寄せ続けてしまいます。スヴァディアーヤは、この無意識のOSに光を当て、それを書き換えるための、最初の、そして最も重要なステップなのです。
スヴァディアーヤは、知識を詰め込んで頭でっかちになることではありません。それは、学んだことを自らの経験と照らし合わせ、知識を知恵へと昇華させていく、生きたプロセスです。外なる書物を読み、内なる自己という書物を読む。この二つの実践を通して、私たちは自分の人生の物語を深く理解し、その物語の主体的な作者となることができるのです。


