私たちの内側では、一日を通して絶え間ない対話が繰り広げられています。この「自己対話」の質が、私たちの心の状態、ひいては人生の質そのものを決定づけると言っても過言ではありません。しかし、その対話で用いる「問い」の立て方一つで、私たちは自分を追い詰める無限の迷宮に迷い込むこともあれば、新たな可能性の扉を開くこともできるのです。その分岐点となるのが、「なぜ?」という問いから、「何を?」という問いへの、意識的なシフトです。
困難な状況や不快な感情に見舞われた時、私たちの心は反射的に「なぜ?」と問い始めます。「なぜ私はいつも失敗するのだろう?」「なぜあの人は私を理解してくれないのか?」「なぜこんなことが私の身に起きるのか?」。この問いは、一見、原因を探求する知的な行為のように思えます。しかし、その多くは私たちを過去へと引き戻し、自己弁護や他者への責任転嫁、そして終わりのない自己批判のループへと誘う罠なのです。
「なぜ?」という問いは、その性質上、過去に向けられています。それは既に起きてしまったことの原因を探る旅であり、その原因は無数に遡ることができてしまいます。幼少期の経験、社会の構造、あるいは前世のカルマまで。明確な答えが見つかることは稀で、探求すればするほど、無力感や罪悪感というラジャス(激動)やタマス(停滞)のエネルギーを増幅させてしまうことになりかねません。これは、仏教に伝わる「毒矢の譬え」を思い起こさせます。毒矢で射られた人が、「誰が、どんな弓で、どんな毒を塗って射たのか?」とその原因(なぜ?)を問い詰めている間に、毒が全身に回って命を落としてしまう。まずなすべきは、その矢を抜くという、今ここでの具体的な行動なのです。
そこで、意識の舵を「何を?」という問いへと切り替えてみましょう。この問いは、未来と行動に焦点を合わせています。「この経験から、私は何を学ぶことができるだろうか?」「この状況を少しでも良くするために、次に私は何ができるだろうか?」「この不快な感情は、私に何を伝えようとしているのか?」。これらの問いは、私たちを受動的な被害者の立場から、自らの人生の主体的な創造主の立場へと引き戻してくれます。
「何を?」と問うことは、ヨガ哲学における「スヴァディアーヤ(自己学習)」の、極めて実践的な形です。スヴァディアーヤとは、聖典を読誦するだけでなく、自分自身の人生という書物を読み解き、そこから智慧を学ぶ行為を指します。失敗や困難は、単なる不運な出来事ではなく、私たちに何かを教えるために現れたテキストなのです。そのテキストから学ぶべきレッスンは何か、と問うことで、私たちは経験を知恵へと昇華させることができます。
この問いの転換は、自分自身に対する「アヒンサー(非暴力)」の実践でもあります。「なぜ自分はダメなんだ」と鞭打つ代わりに、「今、私がこの自分にしてあげられることは何か?」と優しく問いかける。それは、自分自身への深い慈悲から生まれる対話です。
日常の中で、ネガティブな思考の渦に巻き込まれそうになったら、一度立ち止まって、深く呼吸をしてみてください。そして、呪文のように繰り返される「なぜ?」という問いを、意識的に「何を?」へと置き換えてみるのです。この小さな転換が、あなたの内なる風景を劇的に変えるでしょう。過去への後悔から未来への創造へ。自己批判から自己探求へ。問いの質が、あなたの人生の質を、そしてあなたが引き寄せる現実そのものを、静かに、しかし確実に変容させていくのです。


