私たちの心の中は、実に賑やかな場所です。ひっきりなしに誰かが訪れ、何かを語りかけては去っていきます。ある時は、過去の失敗を責め立てる批判的な客。またある時は、未来への不安を煽る心配性の客。かと思えば、甘美な思い出を運んでくる懐かしい客や、壮大な計画をまくしたてる野心的な客もいます。私たちはこの無数の訪問者たちを、まとめて「思考」と呼んでいます。
ここで陥りがちなのが、これらの客を「家主」である自分自身と混同してしまうことです。心配性の客が訪れると、「私は心配性な人間だ」と思い込み、その客と一体化してしまいます。批判的な客の声が響けば、「私はダメな人間だ」とその言葉を鵜呑みにしてしまう。家主であるはずの私たちが、いつの間にか客の言いなりになり、家の中をめちゃくちゃにされている。これが、私たちが日常的に経験している苦しみの構造です。
ヨガや仏教の瞑想伝統が教えてくれるのは、この主客転倒からの解放です。「思考は『客』である」という見方を、稽古として身につけること。これは、あなたの家(心)に訪れる思考という客に対して、新しい作法で接するということです。
まず、客が来たことに気づきます。玄関のチャイムが鳴ったように、「ああ、今、『不安』という客が来たな」「『自己批判』さんがいらっしゃったか」と、その存在をただ認識します。これがマインドフルネスの第一歩です。これまでの私たちは、客が来た途端に玄関を開け放ち、相手が誰かも確かめずにリビングに招き入れ、一緒になって騒いでいました。しかし、新しい作法では、まずドアスコープからそっと覗き、「今日の客はこういう顔をしているのか」と冷静に観察するのです。
次に、その客を丁寧にもてなします。「いらっしゃいませ、『不安』さん。どうぞ、お茶でも一杯」と、心の中で静かに語りかけます。ここが重要なポイントです。私たちはしばしば、ネガティブな思考を「悪者」とみなし、追い払おうと躍起になります。しかし、抵抗すればするほど、客は「話も聞いてもらえないのか!」と大声を出し、ドアを蹴破って入ってこようとします。思考に抵抗することは、その思考にエネルギーを与え、さらに強力にしてしまうのです。ですから、追い払うのではなく、まずは「もてなす」。その感情や思考が、なぜ今ここを訪れたのか。その背景にある未消化の経験や、満たされないニーズに、少しだけ耳を傾けてみるのです。
しかし、ここからが肝心です。「もてなすが、引き止めない」。お茶を一杯差し上げたら、長居はさせません。「さて、そろそろお時間ですね。お気をつけてお帰りください」と、丁寧にお帰りいただくのです。思考という客は、こちらが関心を示し続ける限り、いつまでも居座ろうとします。しかし、こちらが静かに意識を「今ここ」の呼吸や、身体の感覚へと戻すと、客は手持ち無沙汰になり、やがて静かに去っていきます。
この「もてなし、そして見送る」という作法は、まさに身体的な稽古を通して体得される「型」のようなものです。武道や茶道において、型を繰り返し稽古することで、いかなる状況でも身体が自然に最適の動きをするようになるように、私たちも思考との付き合い方を繰り返し稽古するのです。瞑想中に浮かび上がる思考に気づき、ラベルを貼り(ラベリング)、そして静かに呼吸に意識を戻す。この一連の流れが、私たちの心の「型」となります。
この作法が身につくと、引き寄せの法則に対する理解も深まります。望まない現実を創り出すのは、多くの場合、私たちの家に居座ってしまったネガティブな客(思考)です。「どうせ無理だ」「お金がない」「愛されない」といった客が心の中心を占拠していると、私たちの存在全体がその周波数に染まり、同じ周波数の出来事を現実に呼び込んでしまいます。
思考を客として扱えるようになるということは、自分の心の状態を意識的に選択する力を手に入れるということです。どの客を招き入れ、どの客には丁重にお引き取り願うか。その選択権は、家主であるあなたにあるのです。もちろん、嵐のような日には、招かれざる客が土足で上がり込んでくることもあるでしょう。それでも、あなたが家主であることを忘れさえしなければ、嵐が過ぎ去った後、再び家を整え、窓を開けて新しい空気を取り込むことができます。
今日、あなたの心にはどんな客が訪れていますか? 慌てて追い出そうとせず、かといって一緒になって騒ぎ立てるのでもなく、まずは静かに観察してみてください。そして、心の中でそっと呟くのです。「いらっしゃい。そして、さようなら」と。その静かな距離感の中にこそ、本当の心の自由が芽生え始めるのです。


