ヨーガ哲学:心の制御と解脱 – パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』

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ヨーガ哲学へのいざない:身体を超えた心の探求

現代において「ヨガ」という言葉を耳にすれば、多くの方々は身体を動かし、心地よい汗を流すエクササイズや、心身のリラクゼーション法を思い浮かべることでしょう。それは決して間違いではありません。しかし、インド哲学の壮大な潮流の中で「ヨーガ」が指し示す地平は、より深く、広大です。六派哲学の一つとして数えられるヨーガ学派は、単なる身体技法に留まらず、人間の苦しみの根源を見つめ、そこからの完全な解放(モークシャ)を目指す、極めて実践的な心の哲学なのです。

その羅針盤となるのが、紀元後4〜5世紀頃に聖賢パタンジャリによって編纂されたとされる根本経典『ヨーガ・スートラ』です。この経典は、わずか195の短い箴言(スートラ)から成り立っていますが、その一行一行には、心の構造、その働き、そしてそれをいかに制御し、静寂へと導くかの深遠な知恵が凝縮されています。

この講では、現代のヨガの源流ともいえるヨーガ哲学の世界へと分け入り、『ヨーガ・スートラ』が解き明かす心の地図を頼りに、私たちが真の自己に出会い、安らぎを得るための道を共に探求していきましょう。それはまるで、陽の当たる縁側で静かに坐り、自身の呼吸の音に耳を澄ませるように、自らの内なる宇宙を発見していく旅のようなものです。

 

ヨーガ哲学の理論的骨格:サーンキヤ哲学との響き合い

ヨーガ哲学の深奥に触れるためには、まず、その思想的な土台となったサーンキヤ哲学を理解することが不可欠です。サーンキヤは、六派哲学の中でも最も古い学派の一つであり、ヨーガ哲学の理論的な骨組みの多くを提供しています。ヨーガ哲学が「有神サーンキヤ」と呼ばれることもあるのは、この深いつながりゆえです。

サーンキヤ哲学の最大の特徴は、この世界を二つの究極的な原理から説明する徹底した二元論にあります。

  • プルシャ(Puruṣa):純粋精神、観照者、「見るもの」。プルシャは意識そのものであり、活動も変化もしません。それはただ静かに、スクリーンに映し出される映像を眺める観客のように、世界の展開を「見る」だけの存在です。複数存在すると考えられています。

  • プラクリティ(Prakṛti):根源物質、自性、「見られるもの」。プラクリティは、心、身体、そして私たちが知覚するすべての物質世界を生み出す根源的なエネルギーです。それ自体は意識を持ちませんが、活動的で常に変化する性質を持っています。プラクリティは一つだけ存在し、サットヴァ(純質)、ラジャス(激質)、タマス(闇質)という三つのグナ(構成要素)から成り立っています。

サーンキヤ哲学によれば、私たちの苦しみの根本原因は、本来は純粋な観察者であるはずのプルシャが、プラクリティから展開した心(チッタ)や身体(シャリーラ)を「私自身である」と誤って同一視してしまうことにあります。これを**無知(アヴィディヤー, avidyā)**と呼びます。映画の登場人物に感情移入しすぎて、自分が観客であることを忘れてしまうような状態です。

ヨーガ哲学は、このサーンキヤの二元論をほぼそのまま受け入れます。そして、この「同一視」という混乱状態からプルシャを解放し、自己本来の純粋な状態に還すための、極めて具体的な実践方法を提示するのです。

唯一の大きな違いは、ヨーガ哲学が**自在神(イーシュヴァラ, īśvara)**という特別なプルシャの存在を認める点です。イーシュヴァラは、カルマや苦悩の影響を一切受けない、永遠にして全知の存在です。ヨーガの実践において、イーシュヴァラへの信愛(バクティ)や祈念は、心の集中を助け、解脱への道を容易にするための重要な手段として位置づけられています。

 

『ヨーガ・スートラ』の核心:心の作用(チッタ・ヴリッティ)の止滅

『ヨーガ・スートラ』の旅は、その冒頭でヨーガの定義を明確に示すことから始まります。

योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः ॥२॥

yogaś-citta-vṛtti-nirodhaḥ (Y.S. 1.2)

「ヨーガとは、心(チッタ)の作用(ヴリッティ)を止滅(ニローダ)することである」

この一節に、ヨーガ哲学の目的のすべてが集約されています。それぞれの言葉を丁寧に解き明かしてみましょう。

  • チッタ(Citta):一般的に「心」と訳されますが、単なる思考や感情だけを指すのではありません。それは、マナス(思考器官)、ブッディ(理性・判断力)、アハンカーラ(自我意識)という三つの機能が統合された、広大な心の領域全体を指します。過去の経験や印象(サンスカーラ)がすべて蓄積されている潜在意識の貯蔵庫でもあります。

  • ヴリッティ(Vṛtti):直訳すると「渦」や「回転」。これは、心の表面で起こるあらゆる作用、活動、さざ波のことです。私たちが普段「考えている」「感じている」と認識しているものは、すべてこのヴリッティです。パタンジャリは、ヴリッティを以下の五種類に分類しました。

    1. プラマーナ(Pramāṇa)正知。直接知覚、論理的推論、信頼できる聖典や人物からの証言によって得られる正しい知識。

    2. ヴィパルヤヤ(Viparyaya)誤解。誤った知識。例えば、薄暗がりで縄を蛇と見間違えるようなことです。

    3. ヴィカルパ(Vikalpa)妄想・概念。言葉の上では存在するが、実体がないものについての思考。例えば「亀の毛」や「空の花」といった概念です。

    4. ニドラー(Nidrā)睡眠。「何もない」という感覚に基づいた心の作用。目覚めた時に「よく眠った」と感じるのは、このヴリッティが存在するからです。

    5. スムリティ(Smṛti)記憶。過去に経験した対象を思い出すこと。

私たちの心は、目覚めている間はもちろん、眠っている間でさえ、これら五つのヴリッティのいずれかが絶え間なく生じては消え、湖の表面に波が立ち続けているような状態にあります。

  • ニローダ(Nirodha)止滅。これは、ヴリッティを無理やり抑圧したり、消し去ったりすることではありません。むしろ、コントロールし、抑制し、静止させることを意味します。風が止み、湖面の波が完全に静まり、鏡のようになる状態を目指すのです。

では、なぜ心の作用を止滅させる必要があるのでしょうか。パタンジャリは、その理由を続くスートラで明らかにします。

तदा द्रष्टुः स्वरूपेऽवस्थानम् ॥३॥

tadā draṣṭuḥ svarūpe-‘vasthānam (Y.S. 1.3)

「その時(ニローダが達成された時)、見る者(ドラシュトゥフ、すなわちプルシャ)は、自己本来の姿(スヴァルーパ)に安住する」

心の波が静まった湖が、その底にある美しい宝石をはっきりと映し出すように、ヴリッティが止滅した静寂な心(チッタ)は、純粋な意識であるプルシャの輝きをそのまま映し出します。このとき初めて、私たちは自分を心や身体と同一視する誤解から解放され、真の自己が何であるかを直接的に体験するのです。これがヨーガ哲学における解脱(モークシャ)の境地です。

 

解脱への実践的な階梯:アシュターンガ・ヨーガ(八支則)

それでは、どうすればこの「チッタ・ヴリッティ・ニローダ」という究極の状態に到達できるのでしょうか。パタンジャリは、そのための極めて体系的で実践的な8つのステップ、**アシュターンガ・ヨーガ(Aṣṭāṅga-yoga, 八支則)**を提示します。これらは単なる8つの項目のリストではなく、木の根から幹、枝、葉、そして花へと至るような、有機的で段階的な修行体系です。

 

【外的な部門(バヒランガ)- 社会生活と自己の調和】

  1. ヤマ(Yama):禁戒

    他者や社会との関係における倫理的な規範です。これは、ヨーガの土台を築くための最も重要な第一歩となります。

    • アヒンサー(Ahiṃsā):非暴力。行為、言葉、思考のすべてにおいて、いかなる生命をも傷つけないこと。

    • サティヤ(Satya):正直・誠実。真実を語り、誠実であること。

    • アステーヤ(Asteya):不盗。他者の物、時間、アイデアなどを盗まないこと。

    • ブラフマチャリヤ(Brahmacarya):禁欲。元来は性的なエネルギーの制御を意味しますが、広義には感覚的な快楽への耽溺を慎むこと。

    • アパリグラハ(Aparigraha):不貪。必要以上のものを所有しない、貪らないこと。

  2. ニヤマ(Niyama):勧戒

    自己の内面を浄化し、修練に向けて整えるための個人的な規範です。

    • シャウチャ(Śauca):清浄。身体的な清らかさ(入浴など)と、精神的な清らかさ(嫉妬や憎しみを持たないこと)の両方。

    • サントーシャ(Saṃtoṣa):知足。与えられた状況に満足し、感謝すること。

    • タパス(Tapas):苦行・修練。自己を鍛錬し、不純物を燃焼させるための努力。アーサナの練習もタパスの一環です。

    • スヴァーディヤーヤ(Svādhyāya):読誦・自己探求。聖典を学び、自己の本質について探求すること。

    • イーシュヴァラ・プラニダーナ(Īśvara-praṇidhāna):自在神への祈念・信愛。自らの行為の結果を自在神に捧げ、自我を手放すこと。

ヤマとニヤマは、言わばヨーガという建物の基礎工事です。この土台がしっかりしていなければ、その上にどれだけ立派な建物を建てようとしても、いずれ崩れ去ってしまいます。

  1. アーサナ(Āsana):坐法

    『ヨーガ・スートラ』におけるアーサナは、現代ヨガで実践されるような多様なポーズのことではなく、本来は「安定して快適な坐法(sthira-sukham-āsanam)」を指します。長時間、動揺することなく瞑想に座り続けるための姿勢です。身体を安定させることは、心を安定させるための第一歩です。身体という最も粗大なレベルでの制御が、心という微細なレベルでの制御へとつながっていくのです。

  2. プラーナーヤーマ(Prāṇāyāma):調息

    プラーナとは生命エネルギー、アーヤーマとはその拡張や制御を意味します。つまり、呼吸をコントロールすることによって、体内の生命エネルギーの流れを整える技法です。呼吸は、身体と心を繋ぐ最も重要な架け橋です。興奮すれば呼吸は速く浅くなり、リラックスすれば深くゆっくりとなります。この関係を逆手に取り、意識的に呼吸を制御することで、荒れ狂う心を穏やかに鎮めることができるのです。

  3. プラティヤーハーラ(Pratyāhāra):制感

    感覚器官(眼、耳、鼻、舌、皮膚)を、それぞれの対象(色、音、香り、味、触覚)から引き離し、内側に向ける訓練です。これは、外の世界に散漫になりがちな意識のエネルギーを、内なる探求へと方向転換させる重要な転換点となります。亀が手足を甲羅の中に引っ込めるように、感覚を自己の内へと収めていきます。

 

【内的な部門(アンタランガ)- 瞑想の深化】

  1. ダーラナー(Dhāraṇā):集中

    プラティヤーハーラによって内向きになった心を、一つの対象に集中させ、そこに留めておく状態です。瞑想の対象は、身体の一部(眉間や心臓)、マントラ(聖なる音)、神の姿など、何でも構いません。一点に意識を注ぎ続ける訓練です。

  2. ディヤーナ(Dhyāna):瞑想

    ダーラナーにおける集中が、努力を要さずに途切れることなく継続している状態です。ここでは、集中している「私」という意識はまだ残っていますが、対象との一体感が増し、思考の流れは穏やかになります。川の水がよどみなく流れ続けるような状態です。

  3. サマーディ(Samādhi):三昧

    ディヤーナがさらに深まり、瞑想している「私」という主観的な意識さえも消え、瞑想対象そのものと完全に一体化した状態です。ここでは、見る者、見られるもの、見るという行為の三つが融合し、言葉では表現不可能な至高の意識状態が現れます。塩の人形が海に溶けて海そのものになるように、個人の意識が普遍的な意識に溶け込みます。このサマーディにおいて、プルシャはプラクリティからの束縛を完全に断ち切り、自己本来の純粋な輝きの中に安住するのです。

 

ヨーガ哲学が現代に投げかける光

パタンジャリがこの深遠な体系を説いてから千数百年が経ちましたが、その教えは色褪せるどころか、情報過多でストレスに満ちた現代社会において、ますます重要な輝きを放っています。

心の作用(ヴリッティ)は、現代風に言えば、スマートフォンから絶え間なく送られてくる通知、SNSのタイムライン、仕事のプレッシャー、人間関係の悩みといった、私たちの心をかき乱す無数の刺激と言い換えることができるでしょう。ヨーガ哲学は、こうした刺激に振り回されるのではなく、心の主導権を自分自身に取り戻すための、具体的で普遍的な方法論を提供してくれます。

ヤマ・ニヤマは、複雑化した社会における倫理的な指針となり、他者や環境との健全な関係性を築くための礎を与えてくれます。アーサナやプラーナーヤーマは、デジタルデバイスに奪われがちな「身体感覚」を取り戻させ、心と身体のつながりを再認識させてくれるでしょう。そして、プラティヤーハーラからサマーディに至る瞑想のプロセスは、外的な成功や評価に幸福を求めるのではなく、自己の内なる静寂と安らぎの中に真の幸福を見出す道を示してくれます。

ヨーガ哲学が目指すのは、現実から逃避することではありません。むしろ、心の波を鎮め、物事をあるがままに見る明晰さを手に入れることで、より深く、より豊かに現実を生きるための知恵なのです。それは、自己という存在の最も深い中心に触れ、そこから世界との本来の「つながり(Yogaの語源yuj)」を再発見する、壮大で、しかし、とてもパーソナルな旅なのです。

縁側の柔らかな日差しの中で、静かに目を閉じ、一呼吸、また一呼吸と、自身の内に意識を向ける。その小さな一歩が、パタンジャリが示した偉大な心の探求の旅の始まりとなるのです。

 

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ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。

 

 


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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。