1.4.2 プルシャの犠牲:宇宙の誕生と人間の起源

ヨガを学ぶ

私たちはどこから来て、どこへ向かうのか。この問いは、人類が意識の黎明期から抱き続けてきた、根源的な問いかけです。夜空に輝く星々を見上げ、足元に広がる大地の営みを感じる時、私たちの心には自ずと、この世界の始まり、そして自らの存在の起源に対する好奇心が湧き上がります。古代インドの叡智の宝庫である『ヴェーダ』は、この深遠な問いに対して、単一の答えではなく、豊かで多様な神話的ヴィジョンを提示してくれます。その中でも、ひときわ異彩を放ち、後のインド思想全体に計り知れない影響を与えたのが、『リグ・ヴェーダ』第10巻90編に収められた「プルシャ・スークタ(Puruṣa-sūkta)」、すなわち「プルシャ賛歌」です。

この賛歌が描くのは、宇宙の始まりにおける、壮絶かつ荘厳な「供犠(きょうぎ)」のドラマです。それは、原初の巨人「プルシャ」が自らを犠牲として捧げることによって、この世界の森羅万象、そして私たち人間社会そのものが創造されたという、驚くべき物語なのでした。この神話は、単なる空想の産物ではありません。それは、古代インドの賢者たち(リシ)が感得した、宇宙、社会、そして人間の存在構造を解き明かすための、一つの精緻な「設計図」であり、哲学的な思索の結晶でもあります。

この章では、プルシャの犠牲という神話の深層に分け入り、その物語が何を語り、どのような世界観を私たちに示してくれるのかを、丁寧に読み解いていきましょう。この旅は、古代インド人の精神世界を探るだけでなく、私たち自身の存在の謎に光を当てる、内なる探求の旅ともなるはずです。

 

プルシャとは何者か? – 原初の巨人の肖像

まず、物語の中心にいる「プルシャ」とは、一体どのような存在なのでしょうか。サンスクリット語で「プルシャ(Puruṣa)」という言葉は、「人」「人間」「男性」、あるいは「霊」や「意識」といった多様な意味を持つ、非常に重要な概念です。ヨーガ哲学に親しんでいる方であれば、サーンキヤ哲学における純粋意識としての「プルシャ」を思い浮かべるかもしれません。その思想的源流を遡っていくと、この『リグ・ヴェーダ』の原初的人格神に行き着きます。

「プルシャ賛歌」は、この神秘的な存在を、息を呑むようなスケールで描写することから始まります。

「プルシャは千の頭を持ち、千の眼、千の足を持つ。

彼は大地をあらゆる方角から覆い、さらにそれを十指分だけ超えて立つ。」

(リグ・ヴェーダ 10.90.1 より拙訳)

千の頭、千の眼、千の足――この「千」という数字は、単なる数量ではなく、「無数」であり「全体」であることを象徴しています。プルシャは、この宇宙に存在するすべての視点、すべての思考、すべての行動を内包する、全的な存在として描かれます。彼の身体は宇宙全体を覆い尽くし、なお余りあるほどの巨大さです。これは、プルシャが物理的な宇宙を超えた、超越的な存在であることを示唆しています。彼は、目に見える世界だけでなく、まだ形を持たない可能性の世界、私たちの認識を超えた領域にまで広がっているのです。

さらに賛歌は続けます。

「プルシャ、彼こそは、この一切である。

過去にありしもの、未来にあるべきものすべて。

不死の世界の主でもある。」

(リグ・ヴェーダ 10.90.2 より拙訳)

ここでプルシャは、単なる空間的な全体性だけでなく、時間的な全体性をも体現する存在として語られます。彼は過去、現在、未来という時間の流れそのものであり、決して滅びることのない「不死(amṛta)」の世界を支配しています。彼は、万物が生まれては消えていく現象世界の背後にある、永遠不変の根源的な実在なのです。

このように見ていくと、プルシャは、人格を持つ神のようでありながら、同時に非人格的な宇宙原理そのものでもあるという、両義的な性格を持っていることが分かります。彼は、後のウパニシャッド哲学で探求される宇宙の最高原理「ブラフマン(Brahman)」の、神話的な原型と見ることができるでしょう。万物の可能性を秘めた、意識を持つ宇宙卵のような存在。それが、これから始まる壮大な創造劇の主役であり、そして犠牲となるプルシャの姿なのです。

 

神々の供犠 – 自己犠牲による創造のドラマ

ヴェーダの宗教体系において、中心的な役割を果たすのが「ヤグニャ(yajña)」と呼ばれる供犠祭祀です。通常、ヤグニャは人間(特にバラモン階級の祭官)が、神々からの恩恵を期待して、バターや穀物、ソーマなどを火の中に捧げる儀式を指します。しかし、このプルシャ神話におけるヤグニャは、その構造が劇的に逆転しています。ここでは、神々自身が祭官となり、原初の巨人プルシャを供物として犠牲に捧げるのです。

「神々がプルシャを供物として、祭祀を執り行ったとき、

春がその溶かしバターとなり、夏が薪となり、秋が供物となった。」

(リグ・ヴェーダ 10.90.6 より拙訳)

なぜ、世界の始まりに「犠牲」という行為が必要だったのでしょうか。それは、ヴェーダ思想の根底に流れる、循環的な世界観と深く関わっています。創造は、無からの創造(creatio ex nihilo)ではなく、常に既存の何かの「変容」や「再構成」として理解されます。一つの完全で未分化な統一体(プルシャ)が、その身を解体し、多様性に満ちた現象世界へと展開していく。そのダイナミックなプロセスこそが「創造」であり、その引き金となるのが「犠牲」という聖なる行為なのです。

この神話における供犠は、単なる破壊ではありません。それは、来るべき世界を生み出すための、意図的で神聖な分解作業でした。神々がプルシャを犠牲にすることは、一つの可能性の塊を、具体的な現実世界へと変換するための、宇宙的スケールの錬金術であったと言えるでしょう。

そして、この「原初の供犠」は、地上で行われるあらゆるヤグニャの原型であり、その正当性の根拠となりました。人間が行う祭祀は、この宇宙創造の神聖なドラマを地上で再現し、宇宙の秩序を維持・更新するための営みである、と位置づけられたのです。祭壇の火は、プルシャが解体された創造の火であり、マントラの詠唱は、世界が生まれた時の響きそのものを再現する試みとなります。こうして、神話は儀式を支え、儀式は神話を体現するという、密接な関係が築かれていきました。

 

プルシャの解体と宇宙の生成 – 万物はプルシャから

神々による供犠によって、プルシャの身体は解体され、その各部位から、この世界のあらゆるものが生み出されていきます。その様子は、まるで壮大な解体新書のようです。

まず、自然界と天体の創造です。

「彼の心(マナス)から月が生まれ、彼の眼から太陽が生まれた。

彼の口からインドラとアグニが生まれ、彼の呼吸(プラーナ)から風(ヴァーユ)が生まれた。

彼の臍から空界が、彼の頭から天界が現れた。

彼の両足から地界が、彼の耳から方角が生じた。

このようにして、彼らは世界を形作った。」

(リグ・ヴェーダ 10.90.13-14 より拙訳)

ここには、極めて重要な思想が示されています。それは、**ミクロコスモス(小宇宙=プルシャの身体)とマクロコスモス(大宇宙=自然界)の照応関係(ホモロジー)**です。プルシャという「人間」の原型から、宇宙そのものが生まれた。これは、人間と宇宙が本質的に同じ構造を持ち、互いに深く結びついているという世界観の表明です。私たちの内なる心(マナス)は夜空の月と、見る眼は天に輝く太陽と、そして私たちの呼吸(プラーナ)は世界を吹き渡る風と、それぞれ響き合っているのです。この「内に宇宙を見る」という思想は、後のウパニシャッド哲学における「梵我一如」や、ヨーガの実践哲学へとまっすぐに繋がっていく、非常に重要な源流となります。

プルシャの身体からは、自然界だけでなく、生き物たちも生まれます。供犠の際に滴り落ちた脂肪からは、空を飛ぶ鳥、森に住む獣、そして村で暮らす家畜たちが生み出されました。さらに、ヴェーダの聖典そのものも、この供犠から生まれたとされています。リグ(賛歌)、サーマ(詠歌)、そしてヤジュス(祭詞)といった神聖な言葉(マントラ)が、創造の瞬間に共に誕生したのです。これは、言葉が単なる記号ではなく、宇宙を成り立たせる根源的な力を持つという「言霊思想」の現れであり、マントラの神聖性を保証するものとなりました。

 

社会秩序の創造 – 四姓制度(ヴァルナ)の起源

さて、このプルシャ神話が持つ、最も重要であり、同時に後世にわたって最も大きな議論を巻き起こす側面が、社会秩序の創造です。プルシャの身体の各部位は、インド社会の基本的な枠組みである「四姓制度(ヴァルナ)」の起源と、直接的に結びつけられました。

「彼の口は何であったか。彼の両腕は何であったか。

彼の両腿、彼の両足は何と呼ばれるか。

彼の口はバラモン(祭官)となり、

彼の両腕はラージャニヤ(王侯・武人)となった。

彼の両腿、それはヴァイシャ(庶民)であり、

彼の両足からシュードラ(隷属民)が生まれた。」

(リグ・ヴェーダ 10.90.11-12 より拙訳)

この対応関係は、極めて象徴的です。

  • :ヴェーダを詠唱し、神々と交信する役割を持つバラモン(Brāhmaṇa)

  • 両腕:力を象徴し、国を守り統治する役割を持つラージャニヤ(Rājanya)、後のクシャトリヤ(Kṣatriya)

  • 両腿:身体を支え、生産活動(農業、商業)を担うヴァイシャ(Vaiśya)

  • 両足:身体の最下部にあり、労働によって他の三つの階級に奉仕するシュードラ(Śūdra)

この神話が果たした社会的機能は、計り知れません。それは、人間が作り出した社会的な階級制度を、神的な宇宙創造のプロセスに由来する、揺るぎない「自然の秩序」として聖化し、正当化するという、強力なイデオロギー装置として機能したのです。ある社会秩序が「人間たちの合意によって作られた」のではなく、「世界の始まりから神によって定められていた」とされる時、その秩序に対する疑念や異議申し立ては、神聖な宇宙秩序そのものへの反逆と見なされかねません。こうして、ヴァルナ制度は、変更不可能な天与の秩序として、人々の意識に深く根ざしていくことになりました。

もちろん、この神話を、単に支配階級が自らの地位を正当化するための物語としてだけ見るのは、一面的かもしれません。ここには、社会全体を一つの有機的な身体として捉える、機能的な社会観も見出すことができます。口、腕、腿、足が、それぞれ異なる役割を果たしながらも、一つの身体として調和的に機能するように、四つのヴァルナもまた、それぞれの社会的役割(ダルマ)を全うすることで、社会という一つの生命体が健全に維持される、という理想が込められていたとも解釈できます。

しかし、歴史の皮肉というべきか、この神話によって神聖化された社会的分業の理念は、時代を経るにつれて硬直化し、中世以降、世襲的で排他的なジャーティ(いわゆるカースト)制度へと発展していきます。その結果、生まれによって人の尊厳や職業が決定づけられるという、深刻な社会的差別を生み出す土壌ともなりました。神話が持つ、共同体を統合し意味を与える力と、特定の秩序を絶対化し、抑圧の道具となりうる危うさ。プルシャ神話は、その両義性を私たちに突きつけてくるのです。

 

プルシャ神話の思想的インパクトと後世への展開

プルシャの犠牲の物語は、古代の書物に眠る単なる昔話ではありません。それは、後のインド思想の広大な海へと流れ込む、力強い源流となりました。

第一に、ウパニシャッド哲学への橋渡しとしての役割です。前述したように、プルシャの身体から宇宙が生まれるというミクロコスモスとマクロコスモスの照応関係は、ウパニシャッドの中心思想である「梵我一如(ブラフマンとアートマンは同一である)」の神話的表現と言えます。宇宙の根源原理であるブラフマン(Brahman)と、個人の内なる本質であるアートマン(Ātman)。この二つが、実は一つであるという深遠な真理。そのヴィジョンは、宇宙そのものであったプルシャが、解体されて万物の中に遍在する、というこの神話の中に、すでにその萌芽を見ることができます。探求の対象は、外なる神々への供犠から、内なるアートマン(=プルシャ)の発見へと、徐々にシフトしていくのです。

第二に、ヨーガ哲学への影響です。後のサーンキヤ哲学やヨーガ哲学で用いられる「プルシャ」は、物質的な世界(プラクリティ, Prakṛti)と対置される、純粋で非活動的な「観照者」としての意識を指します。一見すると、『リグ・ヴェーダ』の活動的で人格的なプルシャとは異なって見えます。しかし、その根底には、多様に展開する現象世界の背後にある、一つの純粋な本質を探求するという共通のベクトルが存在します。ヨーガの実践とは、いわば自らの心身(プラクリティの産物)の中で解体され、多様化してしまったプルシャの断片を、再び一つの純粋な意識へと統合していく旅路である、と解釈することもできるでしょう。

第三に、供犠(ヤグニャ)概念の変容です。プルシャの自己犠牲は、究極の供犠のモデルです。この思想は、やがて儀式の内面化という大きな思想的転換を促します。ウパニシャッドの賢者たちは、物理的に火を焚き供物を捧げる外面的な祭祀よりも、自らの欲望や無知、エゴを「内なる火」で燃やし尽くすことこそが、真のヤグニャであると説くようになります。この内面的な自己犠牲の思想の壮大な原型が、他ならぬプルシャの物語にあったのです。

 

結論:プルシャの犠牲が現代に問いかけるもの

私たちは、「プルシャ・スークタ」という古代の賛歌を通して、壮大な宇宙創造のドラマを旅してきました。原初の巨人プルシャが自らを犠牲とすることで、宇宙と社会、そして人間が生まれたというこの神話は、古代インドの世界観を理解するための、不可欠な鍵です。

しかし、その意義は過去に留まりません。この神話は、時代を超えて、現代を生きる私たちにも、多くの根源的な問いを投げかけてきます。

それはまず、「全体」と「部分」の関係性についての問いです。私たちは皆、家族、社会、国家、そして地球という、より大きな全体の一部として存在しています。プルシャ神話は、私たち一人ひとりが孤立した存在ではなく、大きな生命体の一部として、互いに繋がり合い、それぞれの役割を担っているという視点を思い出させてくれます。

また、「犠牲」と「創造」のダイナミズムを教えてくれます。新たな価値や秩序を生み出すためには、既存の自己や古い枠組みを一度解体し、手放す勇気が必要なのかもしれません。自己変革や社会変革のプロセスには、ある種の「痛み」や「犠牲」が伴う。しかし、それなくして真の創造はあり得ない。プルシャの物語は、そう静かに語りかけているようです。

そして最も重要なのは、神話の持つ力と、それを批判的に読み解く知性の必要性です。プルシャ神話が、いかに強力に社会秩序を基礎づけ、時にそれが差別の温床ともなり得たかという歴史は、私たちが物語や思想、イデオロギーと向き合う際の態度を教えてくれます。それらを無批判に受け入れるのではなく、その背後にある意図や文脈を理解し、現代的な倫理観に照らしてその意味を問い直すこと。その知的な営みこそが、古代の叡智を現代に活かす道なのです。

結局のところ、プルシャの犠牲の物語は、私たち一人ひとりにこう問いかけています。「あなたは、この世界の始まりに捧げられた神聖な身体の一部である。では、あなたはどの部分として、この世界でどのような役割を果たし、何を創造していくのか?」と。この問いに自分なりの答えを見出していくこと。それこそが、ヴェーダ哲学の探求の旅であり、私たち自身の人生を豊かに生きるための、終わりのない冒険なのかもしれません。

 

 

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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。