私たちは、晴れた夜には空を見上げ、満天の星々に息をのみます。そして、ふと問いかけるのです。「この世界は、いったいどこから来たのだろう?」「私は、なぜここにいるのだろう?」と。この根源的な問いは、おそらく人類が言葉を持ち、意識の光を灯した瞬間から、私たちの魂に響き続けてきた問いなのでしょう。
古今東西、あらゆる文化がこの問いに答えようと、独自の壮大な物語を紡いできました。それらを私たちは「神話」と呼びます。神話とは、単なる子どものためのおとぎ話や、科学以前の素朴な空想ではありません。それは、古代の人々が全身全霊で世界と向き合い、宇宙の秩序、生命の神秘、そして人間存在の意味を理解しようとした、叡智の結晶であり、哲学の原型なのです。
これから私たちが旅をするのは、人類最古の文献の一つである『リグ・ヴェーダ』が伝える、古代インドの宇宙創造神話の世界です。しかし、驚くべきことに、『リグ・ヴェーダ』は、旧約聖書の創世記のように、たった一つの完成された「正典」としての創造物語を私たちに提示しません。そこには、まるで万華鏡のように、多様で、時に互いに矛盾するかのようにさえ見える、複数の創造のヴィジョンが併存しているのです。
これは、古代インドの思想家たちが、一つの安易な答えに満足せず、多角的な視点から世界の始まりという巨大な謎に挑み続けた、知的探求のダイナミズムそのものを物語っています。彼らは、独断的な教義を打ち立てる代わりに、深遠な問いそのものを、神々への賛歌として、詩として、私たちに残してくれました。さあ、その声に耳を澄ませ、世界の始まりを巡る壮大な思索の旅に出かけましょう。
もくじ.
原初の状態:混沌から秩序へ
多くの創造神話は、世界が始まる前の「混沌(カオス)」の状態から物語を始めます。そこは、形なく、区別なく、あらゆるものが混じり合った、可能性の海のような場所です。そして、何らかの神的な力や出来事によって、その混沌に「秩序(コスモス)」がもたらされ、天と地が分かれ、光と闇が生まれ、生き物たちが誕生する。これが、神話的な世界認識の基本的な構造と言えるでしょう。
『リグ・ヴェーダ』においても、原初の状態はしばしば「水」としてイメージされます。「そのとき、闇は闇におおわれ、すべては区別のない水であった」(10.129.3)。この「水」は、単なる空虚な無ではありません。それは、あらゆる生命と形態を生み出す可能性を秘めた、豊穣なる母胎です。この原初の水の中から、やがて宇宙の秩序が姿を現します。
古代インドの思想家たちは、この宇宙を貫く普遍的な法則、自然界の運行や道徳的な正しさを支える秩序を「リタ(天則)」と呼びました。リタは、太陽が東から昇り西に沈むこと、季節が巡ること、そして人間が約束を守るべきことの根拠となる、神聖な秩序です。インドラやヴァルナといった神々でさえ、このリタを守護し、それに従う存在とされました。ヴェーダの儀式(ヤグヤ)の目的の一つは、このリタを維持し、混沌が再び世界を覆うことのないように、宇宙の秩序を確かなものにすることにあったのです。創造神話とは、まさにこの「混沌からリタへ」という、宇宙的なドラマを語る物語に他なりません。
黄金の胎児の歌:謎に満ちた創造主への問いかけ
『リグ・ヴェーダ』の中でも、ひときわ神秘的な輝きを放つのが、第10巻121篇に収められた「ヒラニヤ・ガルバ・スークタ(黄金の胎児の歌)」です。この賛歌は、多神教的な世界観から、唯一の創造主へと視点が移行していく、思想の重要な転換点を示唆しています。
太初に、黄金の胎児(ヒラニヤ・ガルバ)は現れた。
彼は、生まれるやいなや、万物の唯一の主となった。
彼は、この大地と、かの天とを支えられた。
我らはいかなる神に、供物を捧げまつるべきか?
詩人は、宇宙の始まりに存在した「黄金の胎児」という謎めいた存在を歌います。この輝く胎児こそが、天と地を創造し、万物を支配する唯一の主であるとされます。ここで歌われる神は、もはや特定の自然現象を司る神ではなく、宇宙全体を統べる、より超越的で普遍的な存在です。
しかし、この賛歌が私たちを深く惹きつけるのは、その結論部分にあります。各詩節の終わりには、「我らはいかなる神に、供物を捧げまつるべきか?(カスマイ・デーヴァーヤ・ハヴィシャー・ヴィデーマ)」というリフレインが、まるで問いかけのように繰り返されるのです。彼らは唯一の創造主の偉大さを讃えながらも、その神の名を特定せず、「いかなる神(カスマイ・デーヴァーヤ)」と呼びかけます。これは、創造主の超越性を前にした人間の畏敬の念と、その本質を完全には把握しきれないという、知的謙虚さの表明ではないでしょうか。
彼らは、創造主を「これこそが神である」と断定する代わりに、「我らが崇拝すべき神とは、一体どのようなお方なのだろうか」と、祈りにも似た問いを発し続けるのです。この「問い」の形で開かれた姿勢こそが、ヴェーダ哲学の深遠さの源泉であり、後のウパニシャッドにおける真理探究の精神へと繋がっていきます。
プルシャの犠牲:儀式によって生成される宇宙と社会
ヴェーダの宇宙創造神話の中で、最も有名で、後世に絶大な影響を与えたのが、第10巻90篇の「プルシャ・スークタ(原人プルシャの歌)」でしょう。これは、単なる世界の始まりの物語ではなく、ヴェーダの中心的な儀式である「ヤグヤ(供犠)」が、いかに宇宙論的な意味を持つかを明らかにし、さらには人間社会の構造そのものを神話的に基礎づける、極めて重要なテクストです。
プルシャは千の頭をもち、千の眼、千の足をもつ。
彼は大地を十指の幅だけ越えて、四方すべてを覆うて立つ。
物語は、千の頭、千の眼、千の足を持つ、宇宙的な規模の巨人「プルシャ」の描写から始まります。プルシャとは、サンスクリット語で「人」や「男性」を意味しますが、ここでの彼は、個々の人間を超えた、宇宙そのものを内包する原初の存在、宇宙的人格です。
この壮大なプルシャを、神々は儀式の犠牲として解体します。それは、まるでヤグヤの祭壇で動物が犠牲に捧げられるかのように、神聖な儀式として執り行われました。そして、驚くべきことに、プルシャの身体の各部分から、この世界のあらゆるものが生み出されていったのです。
彼の心からは月が、眼からは太陽が、口からはインドラ神とアグニ神が、そして呼吸からは風が生まれました。へそからは空界が、頭からは天界が、両足からは大地が、耳からは方角が生じたと歌われます。馬や牛などの動物たちも、そしてヴェーダの三つの聖典(リグ、サーマ、ヤジュル)も、このプルシャの犠牲から誕生したのです。
この神話は、私たちに二つの重要な視点を与えてくれます。
第一に、儀式による世界の再生という思想です。この神話によれば、世界はプルシャという犠牲によって一度創造されて終わり、なのではありません。地上で行われるヤグヤは、この神話的な宇宙創造の行為を「再演」し、模倣するものです。祭官たちが祭壇に供物を捧げるたびに、宇宙は更新され、世界の秩序(リタ)は再確立される。つまり、儀式とは、世界を維持し、常に新しく生成し続けるための、根源的で不可欠な営みとして位置づけられているのです。世界は、神聖な儀式を通じて、常に「いま、ここ」で創造され続けている、というダイナミックな世界観がここにあります。
第二に、宇宙(マクロコスモス)と人間(ミクロコスモス)の照応関係です。プルシャという「人間の形をした宇宙」が解体されて世界が生まれるという物語は、逆に言えば、人間の身体そのものが宇宙の縮図である、という思想の原型を示しています。私たちの眼が太陽に、心が月に対応するように、私たちの身体の一つ一つの部位は、宇宙の働きと深く結びついている。この身体=宇宙というヴィジョンは、後のヨーガやタントラ哲学において、自己の身体を通して宇宙の真理を探求するという実践の、重要な思想的基盤となりました。
さらに、このプルシャの歌は、当時の社会構造を神聖なものとして説明する役割も担っていました。
彼の口は何になったか。彼の両腕は。彼の両腿は。彼の両足は何と呼ばれたか。
彼の口はバラモン(祭官)となった。彼の両腕はラージャニヤ(王侯・武人)となった。
彼の両腿はヴァイシャ(庶民)となった。彼の両足からシュードラ(隷民)が生じた。
このように、社会の四つの階級(ヴァルナ)が、それぞれプルシャの身体の異なる部位から生まれたとされることで、この社会秩序は人間が勝手に作ったものではなく、宇宙創造の時点から定められた神聖で不変の秩序である、と意味づけられたのです。この神話が持つ、強力な社会的・政治的な機能も見過ごすことはできません。
無の歌:哲学的思索の極致、認識の限界への眼差し
もしあなたが、『リグ・ヴェーダ』の宇宙創造神話の中から、最も哲学的で、現代人の心をも揺さぶる詩を一つだけ選ぶとしたら、それは間違いなく第10巻129篇、「ナーサディーヤ・スークタ(無の歌)」でしょう。このわずか七節からなる短い賛歌は、世界の創造神話の中でも類を見ないほど、抽象的で深遠な思索の極みに達しています。
そのとき、無(アサット)も無く、有(サット)も無かった。
空界も無く、その向こうの天も無かった。
何が、どこで、誰の庇護のもとに、動いていたのか?
深く測りがたい水は、存在したのか?
詩は、冒頭から私たちの常識的な二元論を根底から覆します。「有」がなかったのはもちろん、「無」すらなかった、と。光も闇も、生も死も、あらゆる対立概念が生まれる以前の、名状しがたい状態。私たちの言葉と思考が及ばない、絶対的な始原の光景が、否定的な言葉の連なりによって描き出されます。
しかし、その完全な沈黙の中に、やがて微かな動きが兆します。
そのとき、死も無く、不死も無かった。夜と昼の区別も無かった。
かの唯一者(タッド・エカム)が、風なく、自らの力によって呼吸していた。
それ以外には、何ものも存在しなかった。
「かの唯一者」。それはもはや、インドラやアグニのような人格神ではありません。性別もなく、名もなき、非人格的な究極の実在です。この唯一者が、自らの内に秘めた力によって、静かに「呼吸」していた。そこに、生命の最初の鼓動、創造への最初の意志が感じられます。
そして、この唯一者の中から、どのようにして多様な世界が展開していったのか。詩人はその原動力を「タパス(熱)」に見出します。
熱(タパス)の偉大さによって、かの唯一者は生まれた。
次に、意欲(カーマ)が彼の上に生じた。それは思考の最初の種子であった。
タパスとは、本来、儀式の火や苦行によって生じる内面的な熱量を意味します。この内なる熱こそが、創造のエネルギーの源泉であるという思想は、後のヨーガ行者が自らの内側に熱を生み出し、心身を変容させ、悟りを目指すという実践哲学へと、直接的に繋がっていきます。宇宙創造の力が、私たちの内なる実践のうちに見出されるのです。
しかし、この深遠な思索の旅は、最終的に驚くべき懐疑と問いかけによって締めくくられます。
この創造がどこから来たのか、それは造られたものか、否か。
天上にいる、かの監視者だけがそれを知っている。
――あるいは、彼すらも知らないのかも知れない。
なんと、詩人は、宇宙の究極の起源については、天上にいる最高神ですら、本当に知っているかどうかは分からない、と歌うのです。これは、無神論や不可知論とは異なります。むしろ、宇宙の根源的な神秘に対する、最大限の畏敬の念と、人間の認識の限界をわきまえた、徹底した知的誠実さの表明です。
独断的な答えを押し付けるのではなく、私たち読者を、答えのない根源的な問いそのものの前に立たせる。そして、静かに自己の内面を見つめるように促す。ここに、「無の歌」が放つ、時代を超えた哲学的な光があるのです。
始まりの物語が、私たちに語りかけること
『リグ・ヴェーダ』が伝える宇宙創造の物語は、古代インドの人々が、いかに豊かで、深く、誠実に、世界の始まりという大いなる謎と向き合ったかの証です。
黄金の胎児の歌は、超越的な存在への畏敬の念を。プルシャの歌は、私たちの身体が小宇宙であり、儀式的な営みが世界を支えていることを。そして、無の歌は、あらゆる対立を超えた根源への思索と、知的な謙虚さを、私たちに教えてくれます。
これらの物語は、決して遠い過去の遺物ではありません。混沌とした現代社会を生きる私たちは、自らの人生において、何度も「始まり」を経験します。古い価値観が崩れ、新しい自分を創造しなければならないとき、私たちは自らの内なる混沌と向き合わなくてはなりません。
プルシャの犠牲が豊かな世界を生み出したように、私たちの自己変容のプロセスにも、古い自分の一部を手放すという、ある種の「犠牲」が必要なのかもしれません。無の歌が指し示すように、あらゆる思考や概念を手放した静寂の中にこそ、新しい創造の種子が見つかるのかもしれません。
ヴェーダの叡智は、私たちに完成された地図を与えるのではなく、むしろ、私たち自身の内なる宇宙を探求するための、力強い羅針盤を手渡してくれます。この古代の物語を道しるべに、あなた自身の「始まりの物語」を、これからの人生において、丁寧に紡いでいってみてはいかがでしょうか。その旅は、きっとあなたの生を、より深く、豊かなものにしてくれるはずです。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。


