バガヴァッド・ギータ入門 – 古代インドの叡智に触れる、心の旅

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はじまりの前に:なぜ今、私たちは「神の歌」に耳を澄ませるのか

ふと窓の外に目をやると、木々の葉が風にそよぎ、陽の光がきらめいている。そんな日常のささやかな風景の中に、私たちは時折、言葉にならないほどの安らぎや、あるいは深い問いを見出すことがあります。忙しない日々の中で、ふと立ち止まり、「自分とは何か」「何のために生きているのか」「どうすれば心穏やかに過ごせるのか」といった根源的な問いが、心の奥底から静かに湧き上がってくるのを感じる瞬間はないでしょうか。

現代社会は、物質的な豊かさを手に入れた一方で、精神的な渇望感や、先の見えない不安感を抱える人々が増えているように感じられます。情報が溢れ、選択肢は無限にあるかのように見えるのに、かえって何を選べば良いのか分からず、心が迷子になってしまう。そんな経験は、誰しも一度や二度はあるかもしれません。

このような時代だからこそ、私たちは古代の叡智に、心の羅針盤となるような普遍的な教えを求めるのかもしれません。数千年もの時を超えて、今なお多くの人々の心を捉え、人生の指針となり続けている聖典があります。それが、本書でこれから深く旅をする『バガヴァッド・ギータ』、サンスクリット語で「神の歌」を意味する、古代インドの珠玉の教えです。

この『バガヴァッド・ギータ』(以下、ギータと略します)は、単なる宗教書や哲学書という枠を超え、人間の心の深淵を鋭く洞察し、私たちが日々の生活の中で直面する葛藤や苦悩に対して、具体的かつ実践的な智慧を授けてくれる、いわば「人生の取扱説明書」のような存在と言えるでしょう。これから始まるギータとの対話は、まさに皆さん自身の内面へと深く分け入っていく「心の旅」そのものです。この旅を通して、古代インドの深遠な叡智に触れ、物質的な世界観だけでは決して得られない、魂の喜びや真の幸福へと至る道筋を見出すことができるかもしれません。

 

『バガヴァッド・ギータ』とは何か? – 壮大な物語の中で語られる、魂の教え

ギータは、古代インドの大叙事詩『マハーバーラタ』という、全18巻にも及ぶ壮大な物語の一部に収められています。『マハーバーラタ』は、パーンダヴァ族とカウラヴァ族という二つの王族間の壮絶な王位継承争いを軸に、神々や英雄、聖仙たちが織りなす一大叙事詩であり、そのスケールはホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』と比較されることもあります。ギータは、この『マハーバーラタ』の第六巻「ビーシュマの巻」の中に挿入されており、全18章、約700詩節からなる対話形式の詩篇です。

物語の舞台は、まさにパーンダヴァ族とカウラヴァ族が雌雄を決する大戦「クルクシェートラの戦い」が始まろうとする直前の戦場です。パーンダヴァ族の勇将アルジュナは、敵陣に敬愛する師や親族、友人たちの顔ぶれを目の当たりにし、彼らと戦い、殺めなければならないという現実に直面します。自らの「ダルマ」(法、義務、正義)を遂行すべきか、それとも戦いを放棄し、非暴力の道を選ぶべきか、アルジュナの心は激しく揺れ動き、深い絶望と混乱に陥ります。

「ああ、クリシュナよ!私自身の親族を殺してまで、王国や栄華、快楽を欲しようとは思わない。たとえ彼らが私を殺そうとも…」と嘆くアルジュナ。彼の心は、愛する者たちを傷つけることへの悲しみと、戦士としての義務を果たさねばならないという責任感との間で引き裂かれ、弓も矢も手から滑り落ち、戦意を喪失してしまうのです。

この絶望の淵に立つアルジュナに対し、彼の戦車の御者であり、親友であり、そして実は至高神の化身でもあるクリシュナが、深遠なる宇宙の真理と、人間がとるべき行動の道(ヨーガ)を説き明かしていく。これがギータの骨子です。クリシュナは、アルジュナの個人的な苦悩に寄り添いながらも、その問いを普遍的な人間のあり方へと昇華させ、魂の不滅性、行為(カルマ)の本質、宇宙の根源的な力、そして真の解脱へと至る道を示していきます。

ギータが戦場という極限状態を舞台に選んだことには、深い意味が込められています。私たちの人生もまた、日々大小さまざまな「戦い」の連続であると言えるかもしれません。仕事上の困難、人間関係の軋轢、将来への不安、自己との葛藤。そうした中で、私たちはアルジュナのように迷い、苦しみ、時に絶望を感じることもあるでしょう。ギータは、そのような人生の「戦場」において、私たちがどのように物事を捉え、どのように行動し、どのように心の平静を保つべきか、その具体的な指針を与えてくれるのです。

 

古代インドの叡智の潮流 – ギータが花開いた思想的土壌

ギータが成立したのは、紀元前数世紀から紀元後数世紀の間と推定されていますが、その正確な年代については諸説あります。しかし重要なのは、ギータが突如として現れたのではなく、古代インドの豊かで深遠な思想的伝統の上に花開いた聖典であるということです。その源流には、大きく分けてヴェーダーンタ哲学とヨーガの伝統があります。

 

ヴェーダーンタ哲学の精髄:ブラフマンとアートマン、輪廻と解脱

インド思想の最も古い層を形成するのが『ヴェーダ』と呼ばれる聖典群です。当初は自然神への賛歌や祭儀に関する内容が中心でしたが、次第に宇宙の根源や人間の存在に関する哲学的思索が深められていきました。そのヴェーダの哲学的部門、特に奥義書とされる『ウパニシャッド』群の思想を体系化したものが「ヴェーダーンタ哲学」です。

ヴェーダーンタ哲学の中心的な概念は、「ブラフマン」と「アートマン」です。

  • ブラフマン(梵): 宇宙の根本原理、万物に遍在する絶対的な実在、言葉では表現し尽くせない究極の真理を指します。

  • アートマン(我): 個々人の内なる本質、真の自己、肉体や心とは異なる不滅の霊魂を意味します。

ウパニシャッド哲学の有名な教えの一つに「梵我一如(ぼんがいちにょ)」があります。これは、宇宙の根本原理であるブラフマンと、個人の真我であるアートマンは、本質的に同一であるという深遠な洞察です。つまり、私たちの内なる最も深い部分には、宇宙全体と繋がる普遍的な実在が宿っているというのです。

また、古代インド思想に広く見られるのが「輪廻転生(サンサーラ)」の観念です。これは、生命は死後も消滅せず、行為(カルマ)の結果に応じて新たな生を受けるという考え方です。良い行いをすれば良い生まれ変わりをし、悪い行いをすれば苦しみの多い生を受ける。この終わりのない生と死のサイクルから解放されること、すなわち「解脱(モークシャ)」が、多くのインド思想における究極の目標とされています。

ギータは、これらのヴェーダーンタ哲学の概念を巧みに取り入れ、アルジュナの苦悩に応える形で、魂の不滅性や行為の法則、そして解脱への道筋を説き明かしていきます。例えば、クリシュナはアルジュナに対し、「賢者は死者を嘆かず、生者を嘆かない。なぜなら、われわれが決して存在しなかった時はなく、また、将来われわれがすべて存在しなくなる時もないからだ」(第二章11-12節より意訳)と語り、肉体の死を超えた魂の永遠性を強調します。

 

ヨーガの伝統との融合:心の調和と行為の道

ギータはまた、ヨーガの聖典としても非常に重要な位置を占めています。「ヨーガ」と聞くと、現代では体操のような身体的なポーズ(アーサナ)を思い浮かべる方が多いかもしれません。しかし、本来のヨーガは、心の働きを制御し、精神を統一して真我を実現するための広範な精神的修練体系を指します。『ヨーガ・スートラ』という古典的な経典では、ヨーガを「心の作用の止滅」と定義しています。

ギータは、このヨーガの思想を独自に発展させ、日常生活の中で実践できる様々な「ヨーガの道」を提示します。特に重要なのが以下の三つのヨーガです。

  • カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ): 行為の結果に執着することなく、自分の義務(ダルマ)を淡々と遂行する道。ギータの中心的な教えの一つです。

  • ジュニャーナ・ヨーガ(知識・智慧のヨーガ): ヴェーダーンタの真理を学び、瞑想を通して真我を悟る道。

  • バクティ・ヨーガ(信愛・献身のヨーガ): 至高神への絶対的な愛と献身を通して、神との合一を目指す道。

ギータは、これらのヨーガの道が互いに排他的なものではなく、むしろ補完し合い、個人の性質や状況に応じて選択できることを示唆しています。特に、アルジュナのような現実の戦場で行為を迫られる人間にとって、結果への執着を手放し、与えられた義務を神への奉仕として行うカルマ・ヨーガの教えは、非常に実践的な指針となります。

このように、ギータはヴェーダーンタの深遠な哲理と、ヨーガの実践的な修練法を巧みに統合し、時代や文化を超えて多くの人々に受け入れられる普遍的なメッセージを編み上げたのです。

 

なぜ今、ギータを読むのか? – 現代社会を生きる私たちへのメッセージ

数千年前にインドの戦場で語られたギータの教えが、なぜ情報化とグローバル化が進んだ現代社会において、これほどまでに多くの人々の心を惹きつけるのでしょうか。それは、ギータが扱うテーマが、人間の根源的な問いや普遍的な苦悩に深く関わっているからです。

 

1. 迷いと選択の時代における羅針盤として

アルジュナが「何をすべきか」という究極の選択に苦悩したように、私たちもまた、日々の生活の中で無数の選択を迫られます。情報が氾濫し、価値観が多様化する現代において、何が正しく、何が自分にとって本当に大切なのかを見極めることは容易ではありません。ギータは、そのような状況において、感情に流されず、自己の中心軸を見出し、内なる声に耳を傾けることの重要性を教えてくれます。そして、結果に一喜一憂するのではなく、プロセスそのものに誠実に取り組む姿勢を示唆してくれるのです。

2. 「行為」の意味を再発見する

現代社会は、成果主義や効率性が重視されがちです。私たちは常に結果を求められ、そのプレッシャーに疲弊してしまうことも少なくありません。ギータが説くカルマ・ヨーガは、「行為の結果に対する執着を手放しなさい。しかし、行為そのものを放棄してはならない」(第二章47節より意訳)と教えます。これは、結果をコントロールしようとするエゴを手放し、ただ純粋な動機で、与えられた役割や義務に専心することの価値を教えてくれます。仕事、家事、育児、社会活動など、私たちのあらゆる「行為」は、この教えを通して、より深い意味と充実感を持つものへと変わる可能性があります。

3. 「本当の自分」と出会う旅

私たちはしばしば、肩書きや所有物、他者からの評価といった外面的なものによって自分自身を定義しようとします。しかし、ギータは、それらは一時的なものであり、変化しゆくものであると説きます。そして、肉体や感覚、心を超えた、不変で永遠なる「真我(アートマン)」の存在を示唆します。ギータを読むことは、この「本当の自分」とは何かを探求する内なる旅であり、他者との比較や社会的な成功とは異なる、揺るぎない自己肯定感や内なる平和を見出すための手がかりを与えてくれます。

4. 孤立からの解放と、大いなる存在との繋がり

現代社会は、物理的な繋がりが希薄になり、精神的な孤立感を抱える人が増えていると言われます。ギータは、バクティ・ヨーガを通して、人間を超えた大いなる存在(至高神)への信愛と献身の道を説きます。これは、特定の宗教的信仰を強いるものではなく、むしろ、宇宙や自然、あるいは生命そのものに対する畏敬の念や感謝の気持ちを育むことと捉えることができます。自分一人で生きているのではなく、より大きな生命の流れの一部であるという感覚は、私たちに安心感と生きる力を与えてくれるでしょう。

5. 日常の中に「心の平穏」を見出す

ストレスや不安が蔓延する現代において、心の平穏を保つことは非常に重要な課題です。ギータは、瞑想や感覚の制御を通して、心の波を鎮め、内なる静寂に至る道を教えます。そして、喜びと悲しみ、成功と失敗、賞賛と非難といった二元的な対立に心を乱されることなく、常に平静な心を保つ「スティタプラジュニャ(不動の智慧を持つ者)」の境地を示します。これは、感情に振り回されずに物事の本質を見極め、困難な状況にも冷静に対処するための実践的な智慧と言えるでしょう。

 

ギータの扉を開くために:心の準備と読み進め方

これからギータの世界へ足を踏み入れるにあたり、いくつかの心構えをお伝えしたいと思います。

まず、ギータは非常に多層的で奥深い聖典です。一度読んだだけですべてを理解しようとする必要はありません。むしろ、人生の様々なステージで繰り返し読み返すことで、その都度新たな発見や気づきがあるでしょう。焦らず、ご自身のペースで、言葉の一つひとつを味わいながら読み進めてみてください。

次に、ギータは特定の宗教や宗派に属する人だけのものではありません。その教えは普遍的であり、人間存在の根源的な問いに答えるものですから、どのような信条を持つ人であっても、あるいは特定の信仰を持たない人であっても、その叡智から多くのことを学ぶことができます。先入観を持たず、開かれた心で接することが大切です。

また、ギータには様々な翻訳や解説書が存在します。それぞれの翻訳には翻訳者の解釈や個性が反映されており、読み比べてみるのも面白いかもしれません。本書では、できる限り原典の意図を汲み取りつつ、現代の私たちにも分かりやすい言葉で解説していくことを目指します。

そして最も重要なのは、ギータの教えを単なる知識として頭で理解するだけでなく、ご自身の日常生活や経験と照らし合わせながら、実践に移していくことです。アルジュナが戦場という現実の中でクリシュナの教えを体得しようとしたように、私たちもまた、日々の生活の中でギータの智慧を活かしていくことで、その真価を実感することができるでしょう。

 

心の旅の始まりに寄せて

『バガヴァッド・ギータ』との出会いは、皆さんにとって、これまでの価値観や生き方を見つめ直し、より深く、より豊かに生きるための新たな視点を与えてくれる「心の旅」の始まりとなるかもしれません。この旅は、決して平坦な道のりばかりではないでしょう。時にはアルジュナのように迷い、悩み、立ち止まることもあるかもしれません。しかし、クリシュナがアルジュナに寄り添い、導いたように、ギータの言葉は、常に皆さんの傍らにあり、行く先を照らす灯火となってくれるはずです。

さあ、準備はよろしいでしょうか。古代インドの戦場へと心を馳せ、アルジュナの苦悩に共感し、クリシュナの深遠な教えに耳を傾けながら、あなた自身の「心の旅」を始めてまいりましょう。この本が、その旅の良き伴侶となることを心から願っています。縁側で温かいお茶を飲みながら、ゆっくりとページをめくるように、ギータの世界を共に探求していきましょう。

 

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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。