ヨガを推奨しております。
それは、ヨガが単なるストレッチやリラクゼーションのメソッドではなく、私たちが「真の自由」を獲得するための、極めて精緻なシステムだからです。
しかし、この「自由」という言葉ほど、現代社会において誤解されているものはありません。
多くの人は、自由を「何の制限もなく、好きなことを好きなように選べる状態」だと思っています。
「今日は気分じゃないからやらない」
「辛いから楽なポーズに変える」
「先生の指示よりも、自分の感覚を優先する」
一見、これらは「自分を大切にする」行為のように見えます。
しかし、ヨガの指導者として、あるいは一人の探求者として断言しますが、制限のないところに自由はありません。
それは自由ではなく、単なる「無秩序(カオス)」であり、エゴへの隷属です。
EngawaYogaのクラスでは、時として、生徒さんに敢えて「制限」を加えることがあります。
動かないこと、見ないこと、変えないこと。
今日は、なぜ私たちがそのような「不自由」を課すのか。そして、その制限の先にどのような広大な景色が広がっているのかについて、少し深く、静かにお話ししたいと思います。
現代社会の病:「無限の選択肢」という名の牢獄
まず、私たちが生きている現代社会の状況を俯瞰してみましょう。
私たちは「選択の自由」に溢れた世界に生きています。
コンビニに行けば数百種類の飲み物があり、ネットを開けば無限の情報があり、生き方さえも多様化しました。
「何を選んでもいい」と言われることは、素晴らしいことのように思えます。
しかし、実際はどうでしょうか。
多くの人が「何を選べばいいかわからない」という不安に苛まれ、常に「もっと良い選択肢があったのではないか」という後悔(FOMO)にエネルギーを浪費しています。
社会学者のバリー・シュワルツが「選択のパラドックス」と呼んだように、過剰な選択肢は私たちを自由にずるどころか、麻痺させ、不幸にしているのです。
ヨガクラスにおいて「自由に動いてください」「好きなポーズをとってください」と言うことは簡単です。
それは一見、生徒さんの自主性を尊重しているように見えますが、実は「選択の責任」を疲弊した生徒さんに丸投げしている場合があるのです。
現代人は、もうこれ以上、何かを選びたくないのです。
ただ、委ねたいのです。
ヨガの語源が示す「制限」の意味
ヨガ(Yoga)の語源が、サンスクリット語の「ユジュ(Yuj)」=「くびきをつける、馬を御する」にあることはご存知かもしれません。
暴れ馬(私たちの心や五感)に、手綱(制限)をつけて、御者(真の自己)がコントロールすること。
つまり、ヨガの出発点は「制限すること」なのです。
パタンジャリの『ヨガ・スートラ』における八支則を見ても、最初のステップは「ヤマ(禁戒)」です。
暴力を振るわない、嘘をつかない、貪らない。
これらはすべて「〜してはいけない」という制限です。
ポーズ(アーサナ)もまた、身体を特定の形状に押し留めるという制限であり、呼吸法(プラーナヤーマ)は、無意識の呼吸をコントロール下に置くという制限です。
なぜ、これほどまでに制限をするのでしょうか。
それは、川の堤防と同じ理屈です。
堤防という「制限」があるからこそ、水は勢いよく流れ、海(目的地)へと到達することができます。
堤防がなければ、水はあたり一面に広がり、ただの湿地帯となって、どこへも行けずに淀んでしまうでしょう。
私たちのエネルギーも同じです。
制限を加えることで、初めてエネルギーの圧が高まり、内側の岩盤を突き抜ける力が生まれるのです。
クラスにおける具体的な「制限」とその効能
では、具体的にどのような制限が、どのようなスピリチュアルな変容をもたらすのでしょうか。
1. 「視覚」の制限:ドリシュティ(視点)の固定
クラス中、「キョロキョロせずに、鼻先一点を見つめてください」と指示することがあります。
あるいは、目を閉じることを求めます。
人間が得る情報の8割は視覚から来ると言われています。
視線をあちこちに彷徨わせることは、脳を散漫にさせることです。他人のウェアを見たり、鏡の自分を見たりしている間、エネルギーは外へ漏れ続けています。
視覚を制限することで、強制的に意識のベクトルを内側に向けさせます。すると、普段は見過ごしていた「内なる風景」が鮮明に見えてくるのです。
2. 「動き」の制限:不動の維持
「辛くても、そこで動かないでください」
ポーズを長時間ホールドする時、身体は「動きたい!」「降りたい!」と叫び声を上げます。
これは身体の声というよりは、快適な領域(コンフォートゾーン)に留まりたい「エゴの声」です。
ここで敢えて動かないという制限を課すことで、私たちはエゴの反応を客観的に観察するチャンスを得ます。
「ああ、私は今、逃げ出したいと思っているな」
その観察(サクシ・バーヴァ)が生まれた瞬間、私たちは感情と同一化から離れ、精神的な成長を遂げるのです。
3. 「順序」の制限:決まったシークエンス
アシュタンガヨガのように、毎回同じ順番でポーズを行うことも強力な制限です。
「今日は飽きたから違うことをしたい」という気まぐれを許しません。
新奇性を制限することで、「飽き」の向こう側にある深みへと到達できます。
日本の茶道や武道の「型(カタ)」と同じです。
型という厳格な制限があるからこそ、その中で微細な心身の変化に気づくことができるのです。
「型」に入り、自我を溶かす
私たちは「型」や「儀礼」といった外部からの枠組みに身を投じることで、逆説的に自由になります。
「どう振る舞うべきか」という迷いから解放されるからです。
ヨガクラスで、先生の指示(ガイド)という制限に完全に身を委ねること。
「私はこうしたい」という個人的な判断(ジャッジメント)を一時停止し、言われた通りに手足を動かし、言われた通りに呼吸をする。
これは、自我(エゴ)の放棄の練習です。
「私」という小さな殻を破るためには、外部からの圧力や制限が必要なのです。
自分の好きなことだけを、好きなようにやる。
それは「趣味」や「娯楽」としては素晴らしいですが、「道(Tao)」ではありません。
自分の限界を超えていくためには、自分以外の何ものかによる導きと、それに従うという謙虚な制限が必要不可欠なのです。
制限の先にある「絶対的自由」
誤解していただきたくないのは、私たちは苦しむために制限を加えるのではないということです。
制限は、手段であって目的ではありません。
不自由なポーズの中で、深い呼吸が通った瞬間。
視覚を遮断した暗闇の中で、圧倒的な静寂に出会った瞬間。
私たちは、物理的な身体の制約を超えて、意識が無限に広がっていく感覚を味わいます。
これが「カイヴァリヤ(独存・解脱)」へと続く入り口です。
外側の環境がどうであれ、身体がどのような状態であれ、私の内なる平穏は誰にも侵すことができない。
この境地こそが、ヨガが目指す「絶対的な自由」です。
何でもできることが自由なのではありません。
何があっても揺らがないことが、自由なのです。
どうぞ、この愛ある制限の中に、飛び込んできてください。
不自由さを楽しめたとき、あなたは最強の自由を手に入れていることでしょう。
ではまた。


