ヨガを推奨しております。
それは、ヨガが「成長」を目指すものではなく、「成熟」あるいは「還る」ことを目指す営みだからです。
私たちは今、強烈な強迫観念の中に生きています。
「現代社会は、右肩上がりの成長神話に支配されています。」
企業の売上は昨年より増えていなければならず、GDPは成長し続けなければならず、個人のスキルも年収もフォロワー数も、常に「上」を目指して右肩上がりでなければならない。
現状維持は「停滞」や「後退」と見なされ、恐怖の対象となります。
しかし、冷静に自然界を見渡してみてください。
永遠に右肩上がりで成長し続けるものが存在するでしょうか?
花は咲き、やがて散ります。月は満ち、やがて欠けます。季節は巡り、命は土へと還ります。
無限の成長とは、自然界においては「がん細胞」の振る舞いだけです。
私たちは、この不自然な「成長神話」という呪いによって、自らの首を絞め、息苦しさを感じているのではないでしょうか。
今日は、この終わりのない競争から降り、ヨガの視点から「降りていくこと」「減っていくこと」の豊かさについて、静かに考えてみたいと思います。
「もっと」という病:資本主義とドーパミン
現代社会のシステム(資本主義)は、私たちの「欠乏感」を燃料にして回っています。
「今のままのあなたでは足りない」
「もっと美しく、もっと賢く、もっと効率的に」
広告やSNSは、絶えず私たちにそう語りかけます。
これは脳科学的に言えば、ドーパミン駆動の生き方です。
ドーパミンは「もっと」を求める物質です。目標を達成した瞬間の快楽を与えてくれますが、その快楽は一瞬で消え去り、すぐにまた次の、より大きな刺激を求め始めます。
このサイクルには「満足(サントーシャ)」というゴールがありません。
どれだけ高い山に登っても、「隣の山の方が高いのではないか」「次はもっと早く登らなければ」という焦燥感が付きまといます。
私たちは、いつの間にか「幸せになるために頑張る」のではなく、「頑張り続けないと不幸になる」という恐怖に追われて走っているのかもしれません。
ランニングマシンの速度は年々上がり続け、振り落とされないように必死で走り続ける。
そんな生き方が、心身に深い疲労(ストレス)を蓄積させているのは明らかです。
ヨガは「向上」ではなく「除去」である
ここで、ヨガの本来の目的を思い出してみましょう。
多くの人が、ヨガを「柔軟性を向上させるもの」「筋力をアップさせるもの」「自分をより良い人間にグレードアップさせるもの」と捉えています。
つまり、ヨガさえも「右肩上がりのツール」として使おうとしているのです。
しかし、古典的なヨガの定義はまったく異なります。
ヨガ・スートラにはこう書かれています。
「ヨガとは、心の作用を死滅させることである(Yogas chitta vritti nirodhah)」
何かを足すのではありません。何かを得るのでもありません。
波立っている心の動きを鎮め、余計なものを「取り除く(ニローダ)」プロセスなのです。
彫刻家が木の中から仏像を彫り出すように、私たちの中にすでに存在している「完全な静寂」や「本質的な私」を覆い隠している、余分な思考、執着、エゴを削ぎ落としていく作業です。
ですから、ヨガの練習が進むにつれて、私たちは「すごく」なるのではなく、「シンプル」になっていきます。
欲が減り、こだわりが減り、持ち物が減り、見栄が減っていく。
グラフで言えば、見事な「右肩下がり」です。
しかし、その減っていったスペースに、これまで感じられなかったような深い充足感や、風の音の美しさが満ちてくるのです。
「下降」のスピリチュアリティ
私たちの魂(スピリット)は、本当は上昇だけを望んでいるわけではありません。
登山家は、山頂に立つことだけを目的にしているでしょうか?
登ることと同じくらい、無事に下山し、麓の温泉に浸かり、温かい布団で眠ることに喜びを感じるはずです。
人生にも、上昇の時期(サークルの表側)と、下降の時期(サークルの裏側)があります。
若さや体力、社会的な地位を得ていく時期もあれば、老いを受け入れ、役割を手放し、静けさへと還っていく時期もあります。
現代社会は「上昇」だけに光を当て、「下降」を敗北や喪失として隠そうとします。
しかし、本当に成熟した魂は、下降の中にこそ深い安らぎと智慧があることを知っています。
「諦める」という言葉は、仏教語の「明らめる(あきらめる)」=「明らかに観る」が語源だと言われています。
できないことを認め、執着を手放し、身の丈を知ること。
それはネガティブな敗北宣言ではなく、自分の本質と調和して生きるための、極めてポジティブで賢明な選択です。
何者でもない自分に寛ぐ
「成長しなくてもいい」と言われると、不安になるかもしれません。
「じゃあ、ただ怠惰に生きればいいのか?」と。
そうではありません。
外側の成果や数字を追いかける努力(ラジャス的な努力)をやめて、内側の充実と調和を大切にする努力(サットヴァ的な努力)に切り替えるということです。
今日一日、誰にも評価されなくても、丁寧に呼吸をしたか。
道端の花に気づく余裕があったか。
食事を味わって食べたか。
家族や友人に、心からの笑顔を向けられたか。
これらの行為は、GDPには反映されません。履歴書にも書けません。
しかし、私たちの魂を養い、人生を「祝祭」に変えてくれるのは、こうした数値化できない瞬間の積み重ねです。
「何者か」になろうとする必死さを手放し、「何者でもないただの命」として、今ここに寛ぐこと。
EngawaYogaの縁側で、ぼんやりと庭を眺めているとき、あなたは「成長」していません。
生産性もありません。
でも、その時、あなたは世界と完全に調和し、満たされているはずです。
結論:降りていく勇気
右肩上がりのエスカレーターを、勇気を持って逆走して降りてみましょう。
あるいは、エスカレーターから降りて、自分の足で土の上を歩いてみましょう。
そこには、競争も、勝敗も、焦燥感もありません。
あるのは、豊かな静寂と、大地に根付く安心感だけです。
私たちが本当に求めていたのは、高い場所からの絶景ではなく、足元の土の温かさだったのかもしれません。
成長神話という呪いを解き、成熟と還元の物語へ。
足す人生から、引く人生へ。
その静かなシフトチェンジを、ヨガは優しくサポートしてくれます。
焦らず、比べず、高みを目指さず。
ただ、深く息をして、今という瞬間に降り立ちましょう。
ではまた。


