私たちはこれまで、瞑想やヨガの実践を通じて「静寂を見つける」「静寂になる」という表現を用いてきました。それは、騒がしい日常から離れ、心の平安という特別な状態を達成するための旅路として、非常に有効な捉え方です。しかし、探求がさらに深まっていくと、ヨガの叡智は私たちに、さらにラディカルで、解放的な真実を提示します。それは、「あなたは静寂を探す旅人なのではなく、あなたが探し求めている静寂そのものである」という驚くべき事実です。
このことを理解するために、空と雲の比喩がよく用いられます。私たちの思考や感情、感覚、そして外界で起こる出来事は、すべて空に浮かぶ雲のようなものです。雲は絶えず形を変え、現れては消え、時には空全体を覆い尽くす嵐になることもあります。私たちは普段、この雲の動きと自分自身を完全に同一化しています。「私は悲しい」「私は怒っている」「私は不安だ」と。私たちは、自分を次々と移り変わる雲だと思い込んでいるのです。
しかし、どんなに厚い雲が空を覆っていても、その雲の向こう側には、常に広大で、静かで、決して傷つくことのない青空が広がっています。雲は空の「中」で起こる現象ですが、空そのものではありません。空は、すべての雲が現れ、そして去っていくための、不動の背景、容れ物なのです。
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)の哲学では、この背景となる空こそが、私たちの本質である真我(アートマン)だと説きます。この真我は、思考や感情、身体的な感覚といった変化する現象を、ただ静かに照らし出す「目撃者(サークシン)」であり、それらの現象によって決して影響を受けることはありません。それは、映画のスクリーンに似ています。スクリーンには、喜びのシーンも、悲劇のシーンも、激しいアクションシーンも映し出されますが、スクリーン自体が濡れたり、燃えたり、傷ついたりすることはありません。映画が終われば、スクリーンはただ、真っ白な静寂としてそこにあるだけです。
あなたは、スクリーンに映し出される登場人物ではなく、そのスクリーンそのものなのです。この理解は、私たちの生き方を根底から変容させる力を持っています。なぜなら、もし私たちの本質が、常に静かで、平和で、完全なものであるならば、私たちはもはや、幸福や安心を求めて外側の世界を彷徨い続ける必要がなくなるからです。幸せは、達成すべき目標ではなく、立ち返るべき「本来の場所」となるのです。
この真実を体験的に理解するための実践が、瞑想における「観察」です。瞑想中に思考や感情が浮かんできたら、それを追いかけたり、分析したり、抑圧したりするのではなく、ただ「思考が浮かんでいるな」「悲しみの感覚があるな」と、空が雲を眺めるように、ただ気づき、そして手放していきます。この練習を繰り返すうちに、私たちは思考や感情と自分自身との間に、わずかな「距離」が生まれるのを感じるでしょう。この距離こそが、自由の空間です。ここで私たちは、自分が変化する現象ではなく、それを静かに見守る、変化しない意識そのものであることを、体験的に知り始めるのです。
この気づきは、瞑想のクッションの上だけでなく、日常生活のあらゆる場面で実践できます。交通渋滞に巻き込まれてイライラした時、そのイライラという「雲」を観察している、静かな「空」としての自分に気づく。誰かからの批判に傷ついた時、その痛みという「雲」が通り過ぎていくのを許している、広大な「空」としての自分に安らぐ。
あなたは、静寂を「所有」することはできません。なぜなら、あなたは静寂そのものだからです。あなたは、平和を「達成」する必要はありません。なぜなら、あなたは平和そのものだからです。あなたの仕事はただ一つ、自分は移ろいゆく雲であるという長年の思い込みから目覚め、自分が本来そうである広大な空の静けさに、ただ気づき、安らぐこと。その安らぎの中に、すべての答えと、無限の豊かさがすでに存在しているのです。


