私たちの心は、放っておくと、まるで濁った水のように思考の沈殿物で満たされていきます。過去への後悔、未来への不安、他者との比較、自己への不満。これらの思考の作用(ヴリッティ)は、心の静けさをかき乱し、私たちの意識を「欠乏」という一点に集中させます。この心の傾向性を自覚し、意識的にその流れを変えるための、シンプルでありながら極めて強力な道具。それが「感謝ノート」です。
ノートにペンで文字を書き記す。この一見アナログな行為には、私たちの内なる世界に秩序と光をもたらす、深い意味が込められています。ヨガ哲学における「スヴァディアーヤ(自己学習・読誦)」は、聖典を読むことだけでなく、自分自身の内なる書物を読み解くことも含みます。感謝ノートをつけるという習慣は、日々の生活の中に散りばめられた「聖なる瞬間」を採集し、自分だけの聖典を編纂していく作業に他なりません。それは、外側の世界に答えを求めるのではなく、自分自身の経験の中に真理を見出していく、能動的な自己探求の旅なのです。
なぜ、頭で思うだけでなく「書く」ことが重要なのでしょうか。それは、書くという身体的な行為が、曖昧な思考に形と輪郭を与え、それを客観的な対象として認識させてくれるからです。ペンを握り、紙の上を滑らせる感覚、インクが文字を形作っていく様。このプロセスは、私たちの意識を「今、ここ」に引き戻し、思考の渦から抜け出すためのアンカーとなります。書かれた言葉は、もはや私たち自身ではなく、私たちが「観察」できる対象物です。この距離感が、感情的な反応から一歩引いて、自分の心の状態を冷静に見つめることを可能にするのです。
この習慣は、私たちの脳の働きにも興味深い影響を与えます。脳にはRAS(網様体賦活系)と呼ばれるフィルター機能があり、自分にとって重要だと認識した情報だけを意識に上げる働きをします。毎日、感謝できることを意識的に探す習慣は、このRASに対して「私にとって感謝できる事柄は重要です」という指令を送ることになります。すると、脳は日常の中から、これまで見過ごしていたようなポジティブな出来事や小さな幸運を、より多く見つけ出してくれるようになるのです。これは、引き寄せの法則が語る「同じ周波数のものが引き合う」という原理の、神経科学的な説明と言えるかもしれません。感謝の意識を持つことで、私たちは世界の中から感謝すべき側面を「観測」し、それを自らの現実として確定させていくのです。
感謝ノートのつけ方は、実にシンプルです。毎晩眠りにつく前に、数分間の静かな時間を作りましょう。そして、その日一日に起こった出来事の中から、心から「ありがとう」と感じたことを3つから5つ、ノートに書き出してみてください。
大切なのは、具体的で、感覚を伴う言葉で記すことです。「天気に感謝」と書くのではなく、「窓から差し込んだ朝の光が、部屋の塵をキラキラと輝かせていた光景に感謝」と書く。「食事に感謝」ではなく、「炊きたてのご飯の甘い香りと、湯気の温かさに感謝」と記す。このように五感に訴える記述は、感謝の感情をより深く、身体レベルで再体験させてくれます。
この静かな儀式を続けるうちに、あなたの人生に変化が訪れるでしょう。眠りの質が深まり、目覚めが穏やかになる。人間関係における小さな棘が気にならなくなり、他者の善意に気づきやすくなる。そして何より、問題や欠乏ではなく、恩恵と豊かさを基盤として一日を始め、終えることができるようになります。感謝ノートは、単なる記録ではありません。それは、あなたの意識を再プログラムし、世界との関わり方を根底から変容させる、神聖な錬金術の道具なのです。


