いつもの道を歩いていると、ふと、風の色が変わったように感じることがありますね。木々の葉がさわさわと囁き合い、空の青さがいつもより深く目に沁みる。そんな瞬間、私たちは無意識のうちに、ほんの少しだけ日常の速度をゆるめ、心の耳を澄ませているのかもしれません。
私たちは日々、たくさんの情報と役割の中で、この最も大切な「内なる声」を聴き逃してしまいがちなのではないでしょうか。
ヨガ、と聞くと、難しいポーズを思い浮かべる方が多いかもしれません。もちろん、アーサナ(体位法)はヨガの素晴らしい入り口の一つです。身体を丁寧に動かし、その感覚をじっくりと味わうことで、私たちは凝り固まった思考や感情からも解放されていくのを感じます。でも、ヨガはマットの上だけで終わるものではない、と私はいつも思うのです。むしろ、マットを降りた後の日常こそが、ヨガの本当の舞台なのかもしれません。
もくじ.
呼吸という、いのちの錨(いかり)
私たちは生まれてからこの方、一日も休むことなく呼吸を続けています。けれど、その呼吸に意識を向ける時間は、どれくらいあるでしょう。忙しさの中で、呼吸は浅く、速くなりがちです。それは、心のありようと深く繋がっているのですね。心がざわついている時、呼吸もまた乱れています。逆に、ゆったりとした深い呼吸は、自然と心を穏やかにしてくれます。
試しに、今、この瞬間、ご自身の呼吸にそっと意識を向けてみてください。吸う息がどこから入ってきて、身体のどこを満たし、そして吐く息がどこから出ていくのか。ただ、その流れを観察するだけです。良い悪いを判断せず、コントロールしようともせず、ただ、あるがままの呼吸を感じてみる。それは、まるで荒れた海に錨を下ろすように、私たちの意識を「今、ここ」に繋ぎ止めてくれる、とてもシンプルで、そして力強い方法なのです。
この「ただ観察する」という態度は、ヨガの教えの中でも非常に大切なエッセンスです。私たちはつい、何かを感じたり考えたりすると、すぐに「これは良い」「これは悪い」「こうすべきだ」「こうあるべきではない」とジャッジしてしまいがちです。でも、そのジャッジメントが、実は私たち自身を苦しめている元凶であることも少なくありません。呼吸の観察を通じて、この「ジャッジしない練習」をすることは、日常の様々な場面で心の自由を取り戻すための、素晴らしい訓練になるように感じます。
「今、ここ」という宝物
私たちの心は、まるでいたずら好きな小猿のように、過去へ飛んだり未来へ飛んだり、なかなかじっとしていてくれません。過去の出来事を悔やんだり、未来のことを心配したり。もちろん、過去から学び、未来に備えることも大切です。でも、心がいつも「今、ここ」を留守にしていたら、私たちは目の前にある豊かさや、ささやかな幸せのサインを見過ごしてしまうかもしれません。
お茶を飲むとき、その温かさ、香り、喉を通る感覚を丁寧に味わう。誰かと話すとき、相手の言葉だけでなく、その表情や声のトーンにも心を寄せる。散歩をしながら、道端の小さな花の色や形に気づく。これらはすべて、「今、ここ」に意識を集中する練習です。
ヨガのアーサナもまた、この「今、ここ」を体験するための素晴らしいツールです。あるポーズをとっているとき、私たちは身体の伸びや、バランス感覚、呼吸のリズムといった、まさにその瞬間の感覚に意識を集中します。すると、不思議と頭の中のおしゃべりが静かになり、心が澄み渡っていくのを感じることがあります。それは、思考のフィルターを通さずに、世界をありのままに体験する、とても新鮮な感覚なのです。
この「今、ここ」に在るという感覚は、私たちに深い安らぎと充足感を与えてくれます。なぜなら、真の現実は、常に「今、ここ」にしか存在しないからです。過去はすでに過ぎ去り、未来はまだ来ていない。私たちが本当に生きることができるのは、この瞬間だけなのですね。
手放す勇気、ゆるめる優しさ
私たちは、気づかないうちに、たくさんのものを握りしめて生きています。それは、物であったり、地位や名声であったり、あるいは「こうありたい自分」という理想像であったりするかもしれません。そして、それを失うことを恐れたり、手に入らないことに苛立ったりします。
ヨガの教えには、「アパリグラハ(Aparigraha)」という言葉があります。これは、「不貪(ふとん)」あるいは「非所有」と訳され、必要以上に物を所有したり、結果に執着したりしないことの大切さを説いています。もちろん、生きていく上で必要なものはありますし、目標を持つことも素晴らしいことです。しかし、それに「しがみつく」のではなく、あるがままの流れに身を委ねる柔軟さを持つことが、心の平安には不可欠なのではないでしょうか。
これは、心だけでなく、身体についても言えることです。私たちは無意識のうちに、身体のあちこちに力を入れて緊張させています。肩が凝ったり、腰が痛くなったりするのは、そうした日々の緊張の積み重ねが原因であることも少なくありません。瞑想やヨガの練習を通じて、この身体の「力み」に気づき、そっとそれを「ゆるめて」あげる。すると、身体が楽になるだけでなく、心もふわりと軽くなるのを感じることがあります。
「手放す」ことや「ゆるめる」ことは、決して諦めや怠慢ではありません。むしろ、それは、より大きな流れを信頼し、自分自身を解放するための、積極的で勇気ある選択なのです。固く握りしめた拳には何も入ってきませんが、そっと開いた手のひらには、思いがけない贈り物が舞い降りてくるかもしれません。
自然という、偉大な師
春には芽吹き、夏には生い茂り、秋には実り、冬には静かに力を蓄える。自然のサイクルには、無理も無駄もありません。それは、あるがままを受け入れ、変化を恐れず、常に「今」を生きている証です。私たち人間もまた、この大きな自然の一部です。自然のリズムに寄り添い、その声に耳を澄ませることで、私たちは忘れかけていた大切な感覚を取り戻すことができるのではないでしょうか。
例えば、月の満ち欠け。新月から満月へ、そしてまた新月へと姿を変えていく月のリズムは、私たちの心や身体にも影響を与えていると言われます。その変化を意識し、自分の内なるリズムと調和させることで、より穏やかで健やかな日々を送るヒントが得られるかもしれません。
また、植物が太陽の光を求めて伸びていくように、私たちもまた、内なる光、つまり自分自身の本質へと向かって成長していく存在なのだと思います。時には雨風に打たれることもあるでしょう。けれど、しっかりと大地に根を張り、柔軟にしなう強さを持っていれば、必ずまた太陽の光を浴びることができる。自然は、そんな静かで力強いメッセージを、いつも私たちに送ってくれているように感じます。
いつもの角を曲がれば、そこはヨガの入り口
ヨガは、特別な場所や時間だけで行うものではありません。私たちの日常そのものが、ヨガを実践するための、かけがえのない「マット」なのです。朝、目覚めたときの最初の一呼吸。通勤電車の中での、つかの間の静寂。仕事の合間の、ふとした気づき。家族と過ごす、温かな時間。そのすべてが、ヨガ的な生き方を深めるための機会に満ちています。
大切なのは、完璧を目指すことではなく、ほんの少しだけ意識のチャンネルを変えてみること。日常の喧騒の中に、一瞬でもいいから、心の静けさを見出すこと。そして、自分自身に対して、そして周りの世界に対して、優しく、慈しみの心を持つこと。
おまけ そわかの法則:日常に奇跡を呼ぶ、感謝と笑顔の魔法
「そ・わ・か」という、どこか懐かしく、心温まる響きの言葉。これは、小林正観さんが提唱された、私たちの日常をより豊かで幸せなものに変える、シンプルながらも奥深い法則の頭文字です。
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そ:掃除
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わ:笑い(笑顔)
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か:感謝
この三つを意識して生活することで、まるで魔法のように、運気が好転し、心穏やかな日々が訪れると言われています。
「そ」の掃除は、単に物理的な空間を清めるだけでなく、心の澱(おり)や不要な執着をも洗い流す行為。清浄な環境は、清浄な心を育みます。
**「わ」の笑い(笑顔)**は、場の空気を和ませ、人との繋がりを円滑にするだけでなく、自分自身の心をも明るく照らします。笑顔は、最高の福の神を呼び込む力があるのです。
「か」の感謝は、当たり前と思っている日常の中に隠された無数の恵みに気づき、それを言葉や心で表現すること。「ありがとう」の言葉は、宇宙の豊かさと共鳴し、さらなる感謝すべき出来事を引き寄せます。
そわかの法則は、難しい修行や特別な才能を必要としません。今日から、誰でも、すぐに実践できる、とても身近な教えです。
部屋を少し綺麗にしてみる。鏡の前でニッコリ笑ってみる。小さな親切に「ありがとう」と伝えてみる。
そんな些細なことから、「そ・わ・か」の種を蒔いてみませんか?
その小さな一歩が、あなたの日常に、思いがけない喜びと幸運の芽を育んでくれることでしょう。そわかの法則は、私たち自身が持つ、内なる幸福力を目覚めさせる、優しくもパワフルな道しるべなのです。



