「カルマ」という言葉には、どこか重く、暗い響きがつきまといます。「それはあなたのカルマだ」と言われれば、まるで逃れられない宿命や、過去の過ちに対する罰を宣告されたかのような、息苦しさを感じる人も少なくないでしょう。私たちはこの言葉を、一種の運命論や決定論として誤解し、人生で起こる困難を「過去の自分のせいだ」と諦めたり、他者の不幸を「自業自得だ」と冷たく突き放したりする口実に使ってしまうことさえあります。しかし、ヨガや仏教の源流に遡るとき、カルマの本来の顔は、もっとニュートラルで、建設的で、希望に満ちたものであることがわかります。
まず、言葉の定義から始めましょう。「カルマ(Karma)」とは、サンスクリット語で「行為」そのものを意味する、ごくシンプルな言葉です。そこから転じて、私たちの「行為」と、その行為が引き起こす「結果」との間にある、切っても切れない連鎖の法則、すなわち「因果応報」のシステム全体を指すようになりました。ここで最も重要なのは、その法則に、善悪の審判を下す「裁き手」や、罰を与える「懲罰者」は存在しない、ということです。カルマは、道徳的なシステムである以前に、自然科学的なシステムなのです。
それは、物理法則と非常によく似ています。ボールを上に投げれば、重力によって下に落ちてくる。これは、ボールに対する「罰」ではありません。ただ、そういう法則である、というだけのことです。同様に、火に手を近づければ、火傷をする。これも火からの「罰」ではなく、「火は熱いものであり、不用意に触れると組織が損傷する」という宇宙の法則を、身をもって学ぶためのフィードバックです。
カルマも、これと全く同じです。私たちの行為(思考、言葉、行動)が、どのような結果(体験、環境、心の状態)を生み出すのかを、ただ淡々と、しかし確実に教えてくれる、壮大な「学びのシステム」なのです。もしあなたが、誰かに対して怒りの言葉を投げつければ、あなたの心の中には怒りの種が蒔かれ、相手との関係性には不和という芽が出ることでしょう。これは罰ではなく、怒りという行為が、怒りと不和という結果を生む、ということを学ぶための、貴重な実地教育です。逆に、あなたが誰かに親切を行えば、あなたの心には喜びの種が蒔かれ、世界には温かい信頼の連鎖が生まれる。これもまた、親切という行為の結果を学ぶためのレッスンなのです。
この視点に立つとき、「前世のカルマのせいで、今の私が不幸なのだ」といった、受け身で無力な言説がいかに的外れであるかがわかります。カルマは、私たちを過去に縛り付けるための鉄の鎖ではありません。むしろ、それは「現在地」を示すGPSのようなものです。過去の無数の選択と行為の結果として、私たちは「今、ここ」に立っている。それは動かせない事実です。しかし、GPSが「ここからどこへでも行ける」可能性を示してくれるように、カルマの法則は、「今、この瞬間の行為によって、未来はいくらでも変えられる」という、力強い希望を私たちに与えてくれるのです。
ですから、何か望ましくない出来事に直面した時、被害者のように「なぜ私がこんな目に遭わなければならないのか」と嘆くのをやめて、探求者のように「この結果は、私のどのような行為(あるいは思考の癖や無意識の前提)から生まれたのだろうか」と、静かに内省してみる稽古を始めてみましょう。これは、自分を責めるための自己批判ではありません。同じパターンを繰り返さないために、システムの仕組みを理解しようとする、極めて建設的で知的な営みです。
カルマを、恐ろしい罰ではなく、叡智に満ちた学びのシステムとして捉え直すこと。それは、私たちを人生の無力な被害者から、自らの運命を創造していく主体的な学習者へと、根本的に変容させる力を持っています。あなたの人生で起こるすべての出来事は、楽しいことも、辛いことも含めて、あなたという存在をより深く、より賢く、より慈悲深いものへと成長させるために用意された、宇宙からの完璧なカリキュラムなのです。


