想像してみてください。あなたは小さな舟に乗り、雄大な川を下っています。両岸には見たこともない美しい花が咲き、鳥たちの歌声が聞こえる。空はどこまでも青く、水面はキラキラと輝いている。この時、あなたにできる最も賢明なことは何でしょうか。それは、オールを舟の底に置き、舵を川の流れそのものに預け、刻一刻と移り変わる景色をただただ楽しむことではないでしょうか。
しかし、私たちの多くは、人生という川下りにおいて、必死にオールを漕いでいます。地図を片手に「あちらの岸の方が良さそうだ」「もっと速く進まなければ」と息を切らし、流れに逆らって舟の向きを変えようと奮闘する。その結果、私たちは疲弊し、不安に駆られ、本来楽しむべきであった川下りの旅路そのものを見失ってしまいます。
ヨガや東洋の叡智は、この「流れに逆らわない」という生き方を、一貫して私たちに教えてくれます。古代中国の老荘思想における「道(タオ)」とは、万物の根源であり、宇宙を貫く自然な摂理、つまりはこの大いなる川の流れそのものです。賢人とは、この流れに抗う者ではなく、流れと一体となり、その力を借りて軽やかに舞う者のこと。「無為自然」という言葉は、何もしないで怠けている状態を指すのではありません。自分の小さなエゴ(我)の力で物事を無理やりコントロールしようとする「有為」な行いをやめ、大いなる流れに沿って、為すべきことを為していく、しなやかで力強い在り方のことを言うのです。
この思想は、ヨーガ・スートラに説かれる「イーシュワラ・プラニダーナ(自在神への献身)」という実践とも深く響き合います。これは、自分の力を超えた大いなる存在、宇宙の摂理、神、あるいはこの「川の流れ」そのものに、自らのすべてを明け渡し、委ねるという心の態度です。これは、決して無力な諦めや現実逃避ではありません。むしろ、人事を尽くした上で、「ここから先は私の管轄外です」と宇宙に信頼を表明する、極めて積極的で勇気に満ちた行為なのです。自分の限られた知識や予測能力を過信せず、全体を司るより大きな知性に敬意を払う謙虚さとも言えるでしょう。
この「流れを信頼する」という感覚は、現代の私たちにとって、最も習得が難しい稽古の一つかもしれません。私たちは、未来を予測し、リスクを管理し、すべてをコントロール下に置くことを良しとする文化の中で生きてきたからです。しかし、人生で起こる最も素晴らしい出来事の多くは、私たちの計画や予測を遥かに超えたところから、まるで贈り物のようにやってくるのではないでしょうか。計画通りに進まない時、私たちはつい「失敗だ」と焦りがちです。しかし、その予期せぬ回り道にこそ、運命的な出会いが待っていたり、自分でも知らなかった新たな才能を発見したりすることがあるのです。その「障害」は、実は川の流れが「そっちじゃないよ、もっと素晴らしい景色がこちらにあるよ」と優しく進路を修正してくれたサインなのかもしれません。
では、どうすればこの人生の流れを信頼し、流れに逆らわずに生きることができるのでしょうか。
まずは、身体の感覚に耳を澄ますことです。何かを無理に推し進めようとしている時、私たちの身体は必ずサインを送っています。肩に力が入り、呼吸は浅くなり、胃がキリキリと痛む。これは身体が「流れに逆らっていますよ」と教えてくれているのです。逆に、物事がスムーズに進んでいる時、私たちはリラックスし、心は軽やかで、まるで追い風に押されているかのような感覚を覚えます。この身体の声を、人生の羅針盤として信頼する練習をしてみましょう。
次に、「抵抗」を手放す稽古です。あなたがコントロールできないこと、例えば他人の気持ちや過去の出来事、天候などに対して、心を悩ませるのをやめてみる。「まあ、いいか」「なるようになるさ」と、心の中でそっと呟き、肩の力を抜いてみてください。これは、トランサーフィンの言うところの「重要性を下げる」実践にも通じます。何かを過剰に重要視し、必死にしがみつこうとすることが、かえって宇宙のエネルギーの流れの中に不自然な「余剰ポテンシャル」を生み出し、抵抗となってしまうのです。力を抜けば、流れは自ずとあなたを最善の場所へと運んでくれます。
信頼とは、未来が自分の思い通りになることへの期待ではありません。それは、舟がどこに流れ着こうとも、そこで出会う景色は、今の自分にとって最も必要で、最も豊かな学びを与えてくれるものである、という宇宙全体への根源的な安心感のことです。その絶対的な信頼の中に身を置く時、あなたはもはや、人生という川の流れと格闘する孤独な舟人ではなく、川そのものと一体となって遊ぶ、自由な魂となるのです。


