現代社会という巨大な鏡の前で、私たちは日々、息苦しさを感じながら生きています。その鏡は、スマートフォンという小さな窓を通して、常に私たちに問いかけてくるのです。「あなたの身体は、理想的ですか?」「あなたの生活は、輝いていますか?」と。
この容赦ない視線は、本来、静寂と内省の場であるはずのヨガマットの上にまで、深く、濃い影を落としています。ヨガが、いつの間にか「美しくなるための手段」となり、「映えるポーズを披露する舞台」へと変貌してしまった。この現状に、違和感や、もっと言えば深い悲しみを覚えているのは、私だけではないはずです。
この文章は、ヨガを愛するすべての人、そしてヨガに興味はあるけれど、そのキラキラしたイメージに気圧されて一歩を踏み出せないでいる人に向けて書いています。SNSのフィードを埋め尽くす「#yogagirl」たちの華やかな姿の向こう側にある、ヨガの本来の魂に、もう一度触れるための旅に出かけましょう。
「映え」という名の怪物と、フィットネス化の罠
ヨガの歴史を紐解けば、その目的は一貫して「心の作用の止滅(チッタ・ヴリッティ・ニローダハ)」、すなわち、絶え間なく揺れ動く心を静め、自己の本質と出会うことにありました。身体を動かすハタ・ヨーガでさえ、その身体はあくまでも解脱を目指すための神聖な「器」であり「道具」でした。身体の見た目の美醜は、その探求のプロセスにおいて、本質的な問題ではなかったのです。
しかし、20世紀にヨガが西洋社会、特にアメリカ西海岸のフィットネス文化と出会った時、運命の歯車が大きく狂い始めました。東洋の深遠な精神修養は、西洋的な「理想の肉体」という概念と結びつき、「ヨガ=健康で美しい身体を作るためのエクササイズ」という、非常に分かりやすく、しかし皮相的なイメージへと再パッケージ化されてしまったのです。
この流れを決定的に加速させたのが、消費社会とSNSの台頭です。ヨガは、「美しくなれる」という魅力的な商品を纏い、市場へと投入されました。高価でお洒落なヨガウェアは、いつしかヨガをするための「資格」のようになり、美しいインテリアのスタジオは、非日常を演出する「舞台装置」となりました。
そして、インスタグラムの登場です。正方形のフレームの中に切り取られた、完璧なプロポーションの女性が、絶景の中で人間離れしたアーサナ(ポーズ)を決める。その一枚の写真は、強烈なインパクトと共に「これがヨガである」という固定観念を、世界中に拡散しました。アーサナは内的な探求のツールから、他者からの「いいね!」という承認を得るためのパフォーマンスへとその意味を転換させられたのです。
この「映え」という名の怪物は、巧妙に私たちの心を蝕みます。それは、ヨガを始めるための「見えない参入障壁」となります。「あんな身体じゃないと、ヨガをしてはいけないんだ」という無意識の刷り込みは、多様な身体を持つ人々を、ヨガの世界から静かに排除していきます。
さらに深刻なのは、すでにヨガを実践している人々への影響です。私たちは、マットの上で自分の身体の「内なる声」に耳を澄ます代わりに、鏡に映る自分の姿や、隣で練習する他者の身体と自分を比較し始めます。「なぜ、あの人のように足が上がらないのだろう」「どうして、私の身体はこんなに硬いのだろう」。ヨガは自己受容の場ではなく、自己否定と劣等感を生産する工場へと成り下がってしまうのです。
身体感覚の主権を取り戻すために
この息苦しい状況から、私たちはどうすれば抜け出せるのでしょうか。その鍵は、パタンジャリが『ヨーガ・スートラ』の中で示した、ヨガの原点に立ち返ることにあります。
「アーサナとは、快適で、安定したものである(sthira-sukham āsanam)」
この短い一節ほど、現代のヨガが忘れてしまった大切なことを、力強く思い出させてくれる言葉はありません。アーサナの価値は、外から見た形の美しさや完成度にあるのではない。それを実践している「あなた自身」が、その内側で「快適さ(sukha)」と「安定感(sthira)」を感じられているかどうかに、すべてがかかっているのです。
この原点に立ち返るための、具体的な実践方法がいくつかあります。
一つは、**「鏡を見ない、あるいは目を閉じて行う」**こと。私たちの意識は、あまりにも視覚情報に支配されています。鏡を覆い、あるいは勇気を出して目を閉じてみる。すると、意識は自然と身体の内側へと向かいます。足の裏が大地を踏みしめる感覚、背骨が一つひとつ伸びていく感覚、呼吸が身体の隅々まで満ちていく感覚。外側からの視線を遮断した時、私たちは初めて、身体が内側から発する微細な声を聞くことができるのです。身体の主権を、視覚から感覚へと取り戻すための、最もシンプルでパワフルな方法です。
もう一度
想像してみてください。さんさんと陽が降り注ぐ、静かな縁側。そこには大きな鏡も、お洒落なウェアも、他者の視線もありません。あるのは、風の音と、鳥の声と、畳の匂い、そして、ただ呼吸をしているあなた自身の身体だけです。
本当のヨガとは、このような場所でこそ、その真価を発揮するのかもしれません。競うことも、見せることも、飾ることも必要ない。ただ、在るがままの自分で、息をする。硬くても、不器用でも、どんな体型でも、その身体は、ヨガをするための完璧な器なのです。
SNSのフィードをスクロールする手を、少しだけ止めてみませんか。そして、その指で、自分の胸にそっと触れてみてください。そこには、SNSの中の誰かではない、「あなた」の鼓動が、確かに響いているはずです。
鏡を割り、外側からの視線の呪縛を解き放ち、自分自身の身体と呼吸の、穏やかで確かな感覚を取り戻す。それこそが、現代に生きる私たちにとって、最もラディカルで、最も必要なヨガの実践なのかもしれません。


