宇宙を構成する三つの基本的な性質(グナ)のうち、「サットヴァ」が静けさと調和を象徴する光であるならば、「ラジャス(Rajas)」は、活動と変化を司る、燃え盛る炎のようなエネルギーです。ラジャスとは、激動、情熱、欲望、そして行動への衝動を意味します。もし、この宇宙にラジャスが存在しなければ、何も生まれず、何も動かず、世界は永遠の停滞(タマス)の中にあるでしょう。サットヴァという設計図を現実の形にするためには、ラジャスという建設のエネルギーが不可欠なのです。
私たちの心において、ラジャスが優勢になるとき、どのような状態になるでしょうか。それは、強い情熱や野心に駆られ、目標達成のために精力的に活動している状態です。新しいプロジェクトを立ち上げたり、競争に打ち勝とうとしたり、世界を変えたいという強い欲求に燃えているとき、私たちの内ではラジャスのエネルギーが渦巻いています。この力は、私たちが何かを成し遂げ、自己を超えて成長していくための、極めて重要な原動力となります。
しかし、このラジャスのエネルギーは、諸刃の剣でもあります。その炎は、暖炉で暖かく燃えることもあれば、すべてを焼き尽くす山火事となる危険性も孕んでいるのです。ラジャスが過剰になり、コントロールを失うと、心は常に落ち着きなく、焦燥感に駆られます。欲望は際限なく膨れ上がり、一つのものを手に入れても、すぐに次のものを求めて渇望します。他者との比較や嫉妬に苦しみ、怒りや苛立ちといった感情が心を支配します。常に動き回っていないと不安になり、静寂の中に身を置くことができなくなります。これは、現代社会を生きる多くの人々が陥っている状態と言えるかもしれません。常に「もっと、もっと」と駆り立てられ、達成しても決して満たされることのない、終わりのないレースを走っているのです。
「引き寄せの法則」の文脈で言えば、ラジャス的なエネルギーは、意図を現実化するための「行動」の燃料となります。ただ夢想しているだけでは、現実は変わりません。インスピレーションに従って行動を起こす、その一歩を踏み出す力はラジャスから生まれます。しかし、その行動が「欠乏感」や「焦り」から発せられるとき、それは力んだ、抵抗の多いものとなり、かえって望む結果を遠ざけてしまいます。過剰なラジャスは、「それがなければ幸せになれない」という強い執着を生み出し、宇宙の自然な流れを信頼し、委ねることを困難にします。
ヨガの叡智は、ラジャスを否定し、消し去ることを教えません。むしろ、この強力なエネルギーを賢く「乗りこなし」、建設的な方向へと転換する術を教えてくれます。それは、暴れ馬を殺すのではなく、手懐けて名馬にするようなものです。
そのための鍵は、やはり「サ-ットヴァ」とのバランスです。ラジャス的な活動に没頭した後は、意識的にサットヴァを高める実践を取り入れることが重要です。例えば、競争の激しい仕事をした後には、静かな音楽を聴きながら瞑想する時間を持つ。激しい運動(これもラジャス的です)の後には、シャヴァーサナ(屍のポーズ)で完全に心身を弛緩させる。情熱的に自己主張をした後には、他者の言葉に静かに耳を傾ける。このように、活動と静寂、情熱と平安の間に、意識的なリズムを作り出すのです。
また、ラジャス的な欲望の「質」を転換することも可能です。自分のためだけの成功や富を求める利己的な欲望(ラーガ)は、私たちを苦しみのループに閉じ込めます。しかし、そのエネルギーを、「自分の才能を通して、世界にもっと貢献したい」「より多くの人々を幸せにしたい」といった、より大きな目的(ダルマ)へと向けるとき、ラジャスは浄化され、サットヴァと調和した、創造的な情熱へと昇華されます。
あなたの内に燃える情熱や野心を、恐れたり、罪悪感を抱いたりする必要はありません。それは、あなたに与えられた、世界に変化をもたらすための神聖なエネルギーです。問題は、そのエネルギーを持っていることではなく、そのエネルギーにあなたが「乗りこなされている」か、それともあなたが「乗りこなしている」か、という点にあります。
日々のヨガのアーサナの実践は、このラジャスを扱うための優れた訓練場です。少し挑戦的なポーズ(例えば、戦士のポーズやアームバランス)に取り組むとき、私たちの内にはラジャスのエネルギーが生まれます。しかし、その中で、いかに呼吸を穏やかに保ち、安定したサットヴァ的な意識を維持できるか。この「動中の静」を体得することこそが、ラジャスの炎を創造性の光へと変える、ヨギの錬金術なのです。あなたの情熱を、世界を照らす光として、賢く使っていきましょう。


