こんにちは、EngawaYogaのKiyoshiです。
原宿・表参道にいつもいるのですが、旅行者で賑わっております。
テクノロジーも発達していき、どんどん進歩していくのがわかります。
ですが、ヨガをやっている身ですと、進歩はしているが進化していないように思ってしまいます。
なにか文句を言いたいわけではなく、ただの感覚の話しですので、あまり目くじらを立ててないでもらえると助かるのですが、AIなどを使って対話をしていると馬鹿になっていき退化していく感覚があります。
人が自分で考えて判断することをやめていくように見受けられるのです。
生身の感覚からもさらに遠ざかっていくような。
便利ですから、私も検索するようには使いますが、なんか危ないなぁと思っています。
人というのは、知識、見識、体識とあると思うのです。
体識というのは勝手な造語です。
知識というのは、そのまま知ったというだけの状態。
見識というのは、見たというだけの状態。
体識というのは、体現した状態。
知識、見識はもうAIとテクノロジーでいくらでもできるでしょう。
それに意味がないということではなく、知識、見識を体識だと思い込んでしまうのが危ないと思っています。
ヨガにおいても、知識をつけるには本を読めばある程度はできます。
専門家のように知るというのは大変ですが、ひとまず概要や一般的な知識は読めばいけます。
もちろんAIに聞いてもいけます。
見識も見ればいいだけなので、いけます。
インドに行く必要もありませんし、インドに行ったところでそれまでです。
体識もここでは注意が必要です。
インドに行って1週間ヨガをやった場合は体識ではあります。
ですが、ただの1週間です。ある意味やっただけ。行っただけ。
1週間東京を観光して、東京周辺の禅寺を巡った人は禅をわかったのでしょうか。(その体験が貴重なのはわかりますが、それは体験しただけで何もわかっていません)
体験は大事ですが、「わかる」までは程遠い。
なのに、ちょっと海外に行く、ちょっとトレーニングを受ける、ちょっと集中して取り込んだだけで、何かできる人のように振る舞い人を騙す人がいる。
これが問題だと思うのです。
ということで、AIやテクノロジーの話を書いていましたが、こんな話になってしまいました。
知性は大事、見識も大事、体識も大事。
でも、その先の方がもっと大事ということです。
と、ここまで書いて思い出しました。三識という考えありました。
知識: 学び、情報を持つこと(知る)
見識: 知識を基に、判断・見極めること(考える)
胆識: 見識を基に、困難を乗り越えて実行すること(やり抜く)
胆識までやれるかということですね。
それには、ヨガなら自分でヨガスタジオでも作って、毎日毎日やり続けて10年、20年と継続することだと思います。
イベントに出て出来た気になっている場合ではない。
在り方がそのままで知識だけつけても、マイナスにもなってしまいます。
こわいこわい。
ヨガ哲学が説く「チッタ・ヴリッティ・ニローダハ(心の作用を止滅すること)」の本質だってそうです。
どんなに分かりやすく説明できても意味がありません。
インドで学んできても意味がありません。
あなたが「わかった」が意味があるのです。
インドに行かないと悟れないなら、そんな悟りはいりません。
その賢い脳をゴミ箱に捨てみませんか。
さすがにゴミ箱は微妙ですね。
脳を少し脇に置けば、その賢い身体蘇ってきます。
もっと大切なことに意識を向けることが大事に思います。
そうそう、「もっと!となりの小さいおじさん」面白いです。
読んでみてください。
日記でまた感想書いていきます。
ではでは。
あなたが自分の「正解」を脳で検索するのをやめたとき、あなたの細胞の一つひとつが、すでに「それ」そのものであったことに気づくはずです。




