頭のおしゃべりを止め、ただ在る静寂へ。SIQAN(シカン)瞑想について【お知らせ】

お知らせ

EngawaYogaきよしです。お知らせです。

 

私たちは、朝目覚めてから夜眠りにつくまで、絶え間ない思考のノイズにさらされています。

「あの仕事の返信をしなければ」「明日の予定はどうなっていたか」「SNSであの人はどうしているだろう」。

情報過多な現代社会において、私たちの脳は常に何かを処理し続け、自律神経は休まる暇を持ちません。

この「思考の過剰さ」が、私たちの直感を鈍らせ、生きるエネルギーを著しく消耗させているのです。そして、さらに直観も入りにくくさせています。

 

心に静寂を取り戻すためには、新しい情報をインプットするのをきっぱりとやめ、ただ「座る」という究極の引き算が必要となります。

 

SIQANについて

SIQAN(只管・弛緩・止観)」は、目的や結果を追い求める現代病から抜け出し、「ただここに在る」という純粋な状態を取り戻すための瞑想メソッドです。

鎌倉時代の禅僧、道元は「只管打坐(しかんたざ)」、すなわち「ただひたすらに座ること」を説きました。

悟りを得ようという目的すらも一種の執着(エゴ)であるとし、座っているその瞬間がすでに完全な状態であると看破したのです。

また、仏教には「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という言葉があります。

これは、何かの役に立つからやるのではなく、その行為自体を純粋な遊びのように楽しむ自由な境地を意味します。

 

SIQANの瞑想もまた、深刻な修行ではなく、自分自身の意識を軽やかに旅する「遊び」と言えるでしょう。

SIQANは、以下の四つのステップを通じて、意識を深い静寂へと導いていきます。

 

自己放下
まずは「良い瞑想をしよう」という意図すらも手放します。コントロールしようとする自我(エゴ)の働きに気づき、身体の重みを地球に預けるように、心の力みをただただ緩めていくステップです。

自己観照
目を閉じていると、必ず様々な雑念が湧いてきます。しかし、それを追い払う必要はありません。「あ、今仕事のことを考えたな」と、判断や評価を交えずに、浮かんでは消える思考を客観的に「ただ観る」練習を繰り返します。

自己超越
観照を続けていると、やがて思考と自分との間にスペースが生まれ、「観る者」と「観られるもの」の境界線が溶け出します。自我の枠を超え、静寂(今ここ)と一体化する、純粋な気づきの状態です。

自己還現
瞑想の深い静寂を味わったのち、その穏やかな意識を保ったまま、ゆっくりと目を開けます。孤高の世界に留まるのではなく、静寂を抱いたまま現実の肉体や日常へと「還り、現れる」。これがSIQANとなります。

 

SIQANは、一時的なリラクゼーションを目的としたものではありません。

自分を縛り付けている「完璧主義」や「他者からの評価」といった幻想を解体し、絶対的な自由を体感するための時間です。

頭の中のノイズを消し去りたい方、本当の意味での休息を得たい方、そして「あるがままの自分」に寛ぎたい方へ。

縁側で静かに目を閉じるように、究極のミニマリズムの世界をご一緒しましょう。
皆様のご参加をお待ちしております。

 

よくある質問

Q1: 瞑想をしようとしても、すぐに雑念が湧いてきて集中できません。SIQANに向いていないのでしょうか?

A1: 雑念が湧くのは、脳の自然な働きであり、全く問題ありません。SIQANの「自己観照」のステップでは、雑念を消そうとするのではなく、「雑念が湧いたことに気づく」こと自体を瞑想のプロセスとします。湧いてきた思考を無理に押し殺そうとする(コントロールする)エゴを手放す練習ですので、雑念が多い方ほど、手放した時の深い静けさを体験しやすくなります。

Q2: 瞑想の姿勢(座り方)が苦痛で長く続けられません。

A2: SIQANでは、特定の厳しい座法を強制することはありません。大切なのは「身体がリラックスし、呼吸が自然に通る」ことです。あぐらが辛ければ椅子に座っても構いませんし、場合によっては仰向け(シャヴァーサナ)で行うことも可能です。ENQAN(アーサナ)で身体を整えた後に行うと、より座りやすくなります。