妄想も現実化すると思うちから。思考のガラクタを手放して純粋な意図に還る方法

365days

お茶を飲んでいると、ふと頭のなかに奇妙な妄想が浮かんでくることがあります。
未来の心配事であったり、もしもこんな大成功を収めたらどうしようという途方もない空想であったり、その内容はさまざまです。
世間ではよく「思考は現実化する」とか「強く願えば引き寄せられる」といった言葉を耳にします。
そうした言葉を真に受けてしまうと、ふと湧き出たネガティブな妄想に対して「これも現実になってしまうのではないか」と怯えることになりかねません。
あるいは逆に、無理やりポジティブな妄想を膨らませて、なんとか思い通りの現実をコントロールしようと躍起になる人も見受けられます。

 

妄想は現実化するのかという問いへの答え

結論から率直に申し上げますと、頭のなかに浮かぶ単なる妄想それ自体には、直接現実を作り出す力はほとんどありません。
多くの人が恐れているような「嫌なことを想像したから、それがそのまま目の前に現れる」という短絡的な因果関係は存在しないのです。
もし頭に浮かんだ妄想がすべてそのまま物質化してしまうなら、私たちの世界はとっくに収拾がつかない混乱に陥っているはずでしょう。
現実を実際に動かしているのは、頭の表面で鳴り響いているおしゃべりや妄想そのものではありません。
その奥底にある、自分自身が世界に対して無意識に置いている「前提」や「あり方」こそが、現実に反映されていきます。
ここを混同してしまうと、頭に浮かぶ思考を力づくで見張るようになり、精神的な緊張が絶えなくなってしまいます。
頭の中に湧き起こる妄想は、通り過ぎる雲のような単なる気象現象にすぎないと理解することが大切です。

 

東洋思想が教える思考の正体。ヴィカルパと唯識

ヨガの歴史や東洋思想の背景を振り返ってみると、この妄想という心の働きは非常に厳密に分析されてきました。
紀元前後に編纂されたヨガの根本経典『ヨーガ・スートラ』では、心の働きを5つに分類しています。

その中に「ヴィカルパ」と呼ばれる心の作用があります。 ヴィカルパとは、実体のない言葉の観念にのみ従って現れる思考、つまり分別や妄想のことです。
実体がないにもかかわらず、言葉の力によってあたかもそこにあるかのように錯覚してしまう心の働きを、パタンジャリはヴィカルパと定義しました。
ヨガが目指す心の静止とは、この実体のないヴィカルパを排除して戦うことではなく、ただ客観的に眺めて巻き込まれない境地を指しています。

また、4世紀頃にインド仏教で大成された「唯識(ゆいしき)」の思想でも、同様の深い洞察がなされています。
唯識とは、すべての現象は外界に客観的に実在するのではなく、個人の深層意識である識の現れにすぎないという哲学です。
唯識では、私たちが頭で勝手に意味づけをして執着するあり方を「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」と呼び、これも妄想の一種とみなします。
そして心の最深層にある「アラヤ識(根本的な蔵のような意識)」に、日々の行為や深い納得が種子として蓄積され、それが時を経て現実として芽吹くと説きました。
つまり、表面的な頭のおしゃべり(ヴィカルパ)が現実になるのではなく、もっと深い場所にある静かな確信や習慣こそが、世界を形作っているということです。

 

エゴのコントロール欲求と重要度の罠

それにもかかわらず、なぜ現代のスピリチュアルでは「妄想を現実化させよう」と力んでしまうのでしょうか。
その原因は、自我が持っている強いコントロール欲求にあります。
「欲しい現実を手に入れたい」「嫌な現実を避けたい」という思いが強くなると、人は妄想を道具として使おうとし始めます。
これはある種の精神的な過剰執着であり、東洋哲学でいうところの「ラーガ(執着)」や「アスミター(慢心・エゴ)」の現れに他なりません。
特定の願望に対して「どうしてもこうならなければ困る」と過剰な重要度を与えてしまうと、心の中に強い緊張と不調和が生まれます。
海の上に無理やり高い波を立てようとすれば、必ずそれを押し戻す逆向きの力学が働くようなものです。
妄想を使って世界を自分の思い通りに捻じ曲げようとする姿勢そのものが、かえって本来のスムーズな流れをせき止めてしまいます。
望む現実を引き寄せようとして必死に妄想を繰り返しているとき、内面で放たれている本音は「今ここにはそれがない」という欠乏感です。
結果として現実化するのは、その「欠乏している自分という前提」のほうになってしまいます。

 

思考のミニマリズム。頭のなかの床面積を広げる

ここで役に立つのが、日々の持ち物を減らしていくミニマリズムの思想です。 私は普段から、部屋の床面積を広げることや、余計な持ち物を手放すことをおすすめしています。
物が少なくなると空間に風が通り、気分が軽くなり、本当に大切なことに使えるエネルギーが増えていきます。
これとまったく同じことが、私たちの頭のなかでも起こるのです。
絶え間なく湧き上がる妄想や「こうあるべきだ」という観念は、精神の部屋に散らかったガラクタのようなものと言えます。
そのガラクタをひとつひとつ吟味して「これは現実化するだろうか、しないだろうか」と悩むのは、使わない段ボール箱を抱えて部屋中を右往左往しているような状態です。
そんなことをする必要はまったくありません。 ただ「あ、またガラクタが散らかっているな」と気づいて、そっと床に置くのをやめるだけで十分です。
頭のなかの床面積を徹底的に広げていくと、思考と自分との間に心地よい余白が生まれます。
妄想が浮かんでも、その妄想と自分を同一化させなければ、それは何の影響力も持たずに自然と消えていくのです。

 

純粋な意図と身体感覚に戻る実践

妄想の嵐から抜け出すために最も効果的なのは、いまここにある身体の感覚へと立ち返ることです。
頭の中でおしゃべりが始まっているとき、私たちの意識は身体を離れて、過去や未来の幻影をさまよっています。
足の裏がしっかりと大地に触れている感覚や、鼻腔を通る空気の温度、呼吸とともにお腹が膨らみ縮むリズムに意識を向けます。
EngawaYogaで大切にしている、ただ静かに坐る「SIQAN」の実践も、この身体性への回帰に他なりません。
静けさのなかに身を置いていると、頭の中で騒いでいた妄想は、実体のない影絵のようなものだったと自然に腑に落ちてきます。
身体がどっしりと落ち着き、余計な重要度を手放した状態のときにだけ、静かな「意図」が働きます。
意図とは、エゴの力みや執着を伴わない、目的地へ向かってただ淡々と歩き出すような自然な選択のことです。
そこには「現実化させてやる」という力みもなければ、「悪いことが起きたらどうしよう」という怯えもありません。
ただ決めて、今できる目の前の役割を淡々とこなしていく。 そのとき、世界は最も抵抗の少ない形で、必要なものを目の前に運んでくれるようになります。

 

終わりに

妄想が浮かんできたとしても、慌てて打ち消す必要はありませんし、それを叶えようと必死に握りしめる必要もありません。
「ああ、いま頭の中でヴィカルパが踊っているな」と、縁側から庭を眺めるような気分で、穏やかに見送ってあげればよいのです。
思考のガラクタを手放し、内なるスペースを広げておくこと。
足るを知るサントーシャの心で、今日という一日を丁寧に味わうこと。
そうして軽やかな自分でいること以上に、美しい現実を連れてきてくれる力はないように感じられます。
明日もまた、余計な荷物を下ろして、すっきりと開けた心で歩んでいきましょう。