ヨガを推奨しております。
それは、ヨガが「頑張って何かを達成する」ためのツールではなく、「頑張ることをやめる」ための練習だからです。
もっと言えば、人生という大きな流れに対して、私たちが無意識に入れている「力み」を抜き、ただその流れに身を任せてみる実験の場だからです。
現代社会は、私たちにとにかく「努力」を求めます。
「成長しなければならない」「勝ち残らなければならない」「生産的でなければならない」
書店に行けば「成功法則」や「努力の技術」といった本が並び、SNSを開けば「朝活」や「筋トレ」で自分を追い込む人々の輝かしい姿が流れてきます。
まるで、努力しないこと、現状に満足することは「悪」であるかのような、そんな無言の圧力を感じてはいないでしょうか。
これを私は、あえて「マッチョな生き方」と呼びたいと思います。
筋肉ムキムキになるという意味だけでなく、精神的に常に自分を鼓舞し、負荷をかけ続け、何かを獲得しようと戦い続ける姿勢のことです。
しかし、ふと立ち止まって考えてみてください。
その「努力」の先に、本当にあなたが求めている安らぎはあるのでしょうか?
今日は、この「マッチョな生き方」から少し降りて、「努力しない生き方(エフォートレス)」という、ヨガ本来の智慧について、静かにお話ししてみたいと思います。
もくじ.
現代社会という「努力教」の呪縛
私たちは子供の頃から、「頑張れば報われる」と教えられてきました。
テストの点数を上げるため、部活でレギュラーになるため、良い会社に入るため。
常に「今のままでは不十分だ」という欠乏感をガソリンにして、未来のために今を犠牲にする生き方をインストールされてきました。
もちろん、努力が素晴らしい成果を生むこともあります。
しかし、この「努力教」には副作用があります。
それは、「うまくいかないのは、努力が足りないからだ」という強烈な自己否定です。
病気になったのも、仕事がうまくいかないのも、人間関係の悩みも、すべて自分の努力不足のせいにしてしまう。
これは、あまりにも過酷な生き方ではないでしょうか。
ヨガの視点から見れば、この世界はもっと複雑で、個人の努力だけでコントロールできる範囲など、ほんのわずかです。
天候を努力で変えられないように、他人の心や、巡ってくる運命も、私たちの努力の外側にあります。
それなのに、すべてを自分の力(エゴ)でコントロールしようとすること。
それが、現代人の抱える深い苦しみの根源なのかもしれません。
ヨガが教える「非努力(アプラヤトナ)」の秘密
ヨガの経典『ヨガ・スートラ』には、アーサナ(ポーズ)の極意として「プラヤトナ・シャイティリヤ」という言葉が出てきます。
これは「努力(プラヤトナ)を、手放す(シャイティリヤ)こと」という意味です。
ポーズをとるとき、私たちはつい「もっと深く曲げよう」「もっと高く上げよう」と頑張ってしまいます。
しかし、ヨガの経典は逆を言っています。
「頑張るのをやめたとき、初めてポーズは完成する」と。
これは、人生の縮図です。
私たちが「こうしたい!」と歯を食いしばって頑張っているとき、実は心身は緊張し、エネルギーの流れ(プラーナ)は滞っています。
逆に、ふっと力を抜き、「ま、いっか」「なるようになるさ」と手放した瞬間に、不思議と物事がスムーズに動き出す経験はないでしょうか。
執着を手放した途端に恋人ができたり、諦めかけた仕事が急にうまくいったり。
ヨガが目指すのは、この「リラックスした集中状態(ゾーン)」です。
それは怠惰とは違います。
やるべきことはやるけれど、結果には執着しない。
川を逆流して泳ぐような「マッチョな努力」をやめて、川の流れに乗ってスイスイと進む「賢い委ね方」を学ぶことなのです。
スピリチュアルな視点:魂のシナリオは「頑張らなくても」進んでいく
少しスピリチュアルな視点でお話ししましょう。
もし、私たちの人生に「魂の青写真(ブループリント)」のようなものがあるとしたらどうでしょう。
あなたが今世で経験すべきこと、出会うべき人、学ぶべきテーマは、ある程度決まっているのかもしれません。
そう考えると、私たちがエゴ(自我)で「こっちに行きたい!」と必死にハンドルを切ろうとする努力は、もしかしたら魂の本来のルートから外れようとする抵抗なのかもしれません。
「人生がうまくいかない」「壁ばかり立ちはだかる」と感じるときは、もしかしたら「そっちじゃないよ」というサインなのかもしれません。
逆に、魂の目的に沿っているときは、物事は驚くほどスムーズに、努力感なし(エフォートレス)に進んでいくものです。
「トランサーフィン」という概念でも語られるように、世界は無限の可能性(バリアント)に満ちています。
私たちがすべきことは、必死に現実を変えようと戦うことではなく、ただ自分が心地よいと感じる、魂が喜ぶパラレルワールドを「選ぶ」ことだけです。
そこには、悲壮な努力は必要ありません。
必要なのは、自分の感覚を信じ、直感に従う軽やかさだけです。
「イーシュヴァラ・プラニダーナ」:大いなるものへの明け渡し
ヨガの最終的な教えの一つに「イーシュヴァラ・プラニダーナ(神への祈念・明け渡し)」があります。
ここでいう神とは、特定の宗教の神様というよりも、「宇宙の法則」や「大いなる自然の力」「サムシング・グレート」と捉えてください。
「私は無力である」と認めること。
これは敗北ではありません。
自分というちっぽけな存在(小我)が、すべてをコントロールしようとする傲慢さを捨て、大いなる流れ(大我)に全幅の信頼を置いて委ねることです。
「人事を尽くして天命を待つ」と言いますが、ヨガ的には「天命を信じて、人事を淡々と楽しむ」くらいの感覚でしょうか。
結果はどう転んでも、それが宇宙にとって、そして自分にとって最善なのだと信じ切ること。
この「絶対的な安心感」の中にいるとき、私たちは最強にリラックスし、かつ最強のパフォーマンスを発揮できるのです。
今日からできる「脱・マッチョ」な生き方の練習
では、具体的にどうすれば「マッチョな生き方」から降りられるのでしょうか。
いくつか、日常でできる小さな練習を提案させてください。
・「〜すべき」を「〜したい」に変える
「成長すべき」「稼ぐべき」「痩せるべき」。この義務感を、一度疑ってみてください。それは本当にあなたの魂が望んでいることですか?もし「したい」と思えないなら、勇気を出してやめてみるのも一つのヨガです。
・「何もしない時間」をスケジュールに入れる
生産性ゼロの時間を作ってください。スマホも見ず、本も読まず、ただ縁側でお茶を飲む。雲を眺める。猫と遊ぶ。その「無駄」な時間こそが、凝り固まった思考の筋肉をほぐしてくれます。
・呼吸に還る
焦りや不安で心が「マッチョ」になりかけたら、深く息を吐いてください。ため息で構いません。吐く息は、副交感神経を優位にし、身体の緊張を解いてくれます。「まあ、なんとかなる」とつぶやきながら吐くのがおすすめです。
・弱さを見せる
「強くなければ愛されない」と思っていませんか?実は、人は他人の完璧さよりも、ふとした弱さや隙に親しみを感じる生き物です。鎧を脱いで、ダメな自分をさらけ出してみる。すると、世界は意外なほど優しくあなたを受け入れてくれるはずです。
終わりに:人生は、ただの「遊び(リーラ)」かもしれない
インドの古い哲学では、この世界は神々の「リーラ(遊び)」だという説があります。
私たちは、人生という壮大なドラマを、深刻に受け止めすぎているのかもしれません。
苦しみも、喜びも、成功も、失敗も。
すべては魂が体験したかった「アトラクション」だとしたら。
もっと肩の力を抜いて、この遊びを楽しんでもいいのではないでしょうか。
努力して歯を食いしばって生きるには、人生は短すぎます。
どうせ生きるなら、風に揺れる柳のように、しなやかに、軽やかに。
流れに身を任せて漂う木の葉のように、予期せぬ景色を楽しむ余裕を持って。
マッチョな生き方をやめてみると、そこには静かで、でも温かい、本当のあなたの人生が待っています。
そのきっかけとして、ヨガマットの上で、まずは身体の力を抜くことから始めてみませんか。
ではまた。



