3.3.2 ニヤマ:勧戒 – 自己に対する心の訓練

ヨガを学ぶ

ヨーガの八支則における最初の二つの段階、ヤマとニヤマは、ヨーガという壮大な建築物を支える揺るぎない土台です。前章で探求したヤマが、他者や社会との関わりにおける「すべきでないこと」を定めた禁戒であり、私たちのエネルギーが無駄に外部へ漏れ出すのを防ぐための外壁だとすれば、この章で扱うニヤマは、自己の内なる世界を積極的に耕し、豊かにするための「実践すべきこと」を説く勧戒です。それは、内なる庭園を育むための、能動的で創造的な心の訓練に他なりません。

ヤマが私たちを社会的な混乱から守る盾であるならば、ニヤマはサマーディ(三昧)という究極の目的地へと向かうための、内なるコンパスであり、旅のエネルギー源そのものです。それは道徳的な義務感から行う堅苦しい規則ではなく、自己の可能性を最大限に開花させ、内なる静寂と喜びに満たされるための、愛に満ちた自己規律なのです。パタンジャリが『ヨーガ・スートラ』で示したニヤマは、シャウチャ(清浄)、サントーシャ(知足)、タパス(鍛錬)、スヴァーディヤーヤ(自己探求)、そしてイーシュヴァラ・プラニダーナ(自在神への祈念)という五つの柱から成り立っています。

これらは単に個別の徳目を並べたものではありません。それぞれが深く結びつき、相互に影響を与え合いながら、私たちの意識をより精妙で高次な次元へと引き上げていくための、統合された実践体系を形成しています。さあ、自己の内なる宇宙を照らす、この五つの光について、一つひとつ丁寧に旅を進めていきましょう。

 

シャウチャ(Śauca):清浄 – 身体と心の純粋性を求めて

ニヤマの第一歩として挙げられるシャウチャは、「清浄」を意味します。これは単なる物理的な清潔さや衛生観念に留まるものではなく、私たちの存在そのものを、外側と内側の両面から浄化していく深遠なプロセスを指し示しています。古代インドの思想において、身体は魂が宿る神殿であり、寺院です。神聖な儀式を行う前に場を清めるように、私たちはヨーガという内なる探求の旅を始めるにあたり、まず自らの神殿である身体と心を清める必要があるのです。

 

外的シャウチャ:器を清める

外的シャウチャとは、私たちの身体、衣服、そして生活する環境を清潔に保つことを意味します。毎日の入浴や歯磨き、清潔な衣服を身につけること、整理整頓された空間で生活すること。これらは一見すると当たり前の生活習慣に思えるかもしれません。しかしヨーガ的な視点では、これらはすべて意識的な実践となります。

私たちの身体は、五感を通して絶えず外界と情報の交換を行っています。汚れた環境や不潔な身体は、五感に不快な刺激を与え、心の集中を妨げ、意識を粗雑なレベルに引き留めます。逆に、清められた身体と空間は、心に静けさと明晰さをもたらします。清流の水が澄み切っているように、清らかな環境は私たちの思考をもクリアにするのです。

また、食事におけるシャウチャも極めて重要です。生命力に満ちた新鮮で純粋な食べ物(サートヴィックな食事)を摂ることは、身体を内側から浄化し、心を穏やかに保つ助けとなります。加工食品や古くなった食べ物、過剰な刺激物などは、身体に不純物(アーマ)を溜め込み、心の働きを鈍らせ、情動を不安定にすると考えられています。何を身体に入れるかを選ぶという行為そのものが、自己の神殿を敬う神聖な儀式となるのです。これは、東洋思想に見られる「禊(みそぎ)」の概念とも響き合います。身体という器を清めることは、内なる神聖さを迎え入れるための、敬虔な準備なのです。

 

内的シャウチャ:心を浄化する

外的シャウチャが土台であるならば、内的シャウチャはその核心です。これは、私たちの心と思考の純粋性を指します。怒り、嫉妬、貪欲、憎しみ、傲慢、恐怖といった感情は、心の純粋性を曇らせる「汚れ」です。これらのネガティブな感情は、私たちの精神的なエネルギーを消耗させ、真実を見る目を曇らせてしまいます。

では、どうすれば心を浄化できるのでしょうか。それは、汚れた水をただ掻き回すのではなく、静かに置いておくことで不純物が沈殿し、水が澄んでくるプロセスに似ています。瞑想(ディヤーナ)の実践は、心の波立ちを静め、感情的な反応の渦に巻き込まれることなく、自己の心を客観的に観察する力を養います。マントラを唱えることは、その神聖な響きによって、心の中のネガティブな振動を浄化し、より高い周波数へと同調させていきます。

そして、この後に出てくるスヴァーディヤーヤ(自己探求)の実践を通じて、なぜ自分が特定の感情に囚われるのか、その根源にある思考パターンや思い込みに気づくことができます。気づきこそが浄化の第一歩です。自分の心に巣食う闇を認識し、光を当てることで、その力は徐々に弱まっていくのです。情報や刺激が絶え間なく流れ込んでくる現代社会において、思考や感情を意識的に選び、内なる環境を整える内的シャウチャの実践は、心の平和を保つために不可欠な智慧と言えるでしょう。

 

サントーシャ(Santoṣa):知足 – 今、ここにある豊かさに気づく

ニヤマの二番目の柱であるサントーシャは、「知足」、すなわち「足るを知る」ことです。これは、現状に対して満足し、感謝の心を持つことを意味します。私たちの苦しみの多くは、現実と理想のギャップから生まれます。「もっとお金があれば」「もっと認められれば」「あの人のようになれたら」…。このような「ないものねだり」の心は、私たちを絶え間ない渇望と不満のループに閉じ込めてしまいます。

サントーシャは、この欲望の無限地獄から私たちを解放してくれる鍵です。それは、今、この瞬間に自分が持っているもの、与えられているものに意識を向け、その豊かさに気づく実践です。健康な身体、吸える空気、飲む水、家族や友人との繋がり、そして生きているという事実そのもの。当たり前すぎて見過ごしてしまいがちな恵みに目を向けるとき、私たちの心は感謝と平安で満たされます。

ここで重要なのは、サントーシャを向上心の欠如や怠惰、諦めと混同しないことです。サントーシャは、目標を放棄することではありません。むしろ、不満や欠乏感を原動力にするのではなく、感謝と充足感という穏やかで力強い土台の上に立って、自己の成長やダルマ(使命)の遂行に向かうことを教えています。焦りや嫉妬から解放された心は、より創造的で持続可能なエネルギーを発揮することができます。

サントーシャを育むためには、日々の生活の中で意識的に感謝を見つける練習が有効です。一日の終わりに、今日感謝できたことを三つ書き出してみる。食事の前に、その恵みに感謝を捧げる。困難な状況の中にも、学びや成長の機会を見出す。このような小さな実践の積み重ねが、私たちの心のあり方を根本から変容させていきます。それは、外側の世界を変えようと奔走するのではなく、内なる認識を変えることで、世界そのものが豊かさに満ちていることに気づくという、革命的な視点の転換なのです。

 

タパス(Tapas):鍛錬 – 内なる炎で不純物を焼き尽くす

三番目のニヤマであるタパスは、しばしば「苦行」と訳され、多くの誤解を生みやすい概念です。その語源は「熱」や「輝き」を意味する動詞「tap」にあり、自己を鍛錬し、不純物を焼き尽くすための内なる炎、あるいは熱意や規律を指します。古代インドの森で、片足で立ち続けたり、火に身を晒したりする苦行者のイメージが先行しがちですが、パタンジャリが説くヨーガにおけるタパスは、そのような自己破壊的な行為とは一線を画します。

ヨーガにおけるタパスとは、アヒムサー(非暴力)の原則に則った上で、自らの成長のために快適領域(コンフォートゾーン)から一歩踏み出し、意志の力をもって自己を鍛錬し続けることです。それは、朝少し早く起きて瞑想の時間を作ることかもしれません。気が乗らない日でもヨガマットを広げ、アーサナの練習を続けることかもしれません。あるいは、自分の悪い習慣(例えば、無駄なゴシップやネガティブな思考)を断ち切る決意かもしれません。

タパスの本質は、私たちの怠惰や快楽への欲求、変化への抵抗といった心の傾向に打ち勝ち、より高い目的のためにエネルギーを注ぎ込むことにあります。このプロセスは、金鉱石を炎で熱して不純物を取り除き、純金を取り出す作業に似ています。タパスの炎は、私たちの感覚的な欲望や心の弱さといった不純物を焼き払い、内なる強さ、決断力、そして集中力といった純粋な資質を輝かせるのです。

しかし、タパスの実践には注意深いバランス感覚が求められます。過度なタパスはエゴを増長させ、「こんなに頑張っている自分」という自己満足に陥ったり、身体や心を燃え尽きさせてしまったりする危険性があります。それはタパスではなく、自己に対する暴力(ヒムサー)になってしまいます。真のタパスは、自己を痛めつけることではなく、自己を愛し、その可能性を最大限に引き出すための、賢明で持続可能な努力です。それは、情熱の炎を燃やし続けながらも、常に内なる静けさと優しさを失わない、絶妙なバランスの上に成り立つ実践なのです。

 

スヴァーディヤーヤ(Svādhyāya):自己探求 – 内なる聖典を読み解く

四番目の柱、スヴァーディヤーヤは、「スヴァ(Sva:自己)」と「アディヤーヤ(Adhyāya:学習、探求)」という二つの言葉から成り、文字通り「自己探求」あるいは「聖典の学習」を意味します。この実践には、二つの側面があります。

一つは、ヴェーダやウパニシャッド、『バガヴァッド・ギーター』、『ヨーガ・スートラ』といった聖典や賢者の教えを学ぶことです。これらのテキストは、何千年にもわたって人類が探求してきた「自分とは何か」「宇宙の真理とは何か」「いかに生きるべきか」といった根源的な問いに対する答えのヒントが詰まっています。スヴァーディヤーヤは、単に知識として文字を読むことではありません。その言葉の意味を深く瞑想し、自分の人生や経験と照らし合わせ、その教えが自分の内で血肉となるまで繰り返し学び続けるプロセスです。賢者の言葉を鏡として、自分自身の姿を映し出し、進むべき道を照らすのです。

そして、もう一つの、より深遠な側面は、自分自身という書物を読むことです。私たちの思考、感情、行動のパターン、繰り返される癖、心の奥底にある欲求や恐れ。これらすべてが、読み解かれるべきテクストです。アーサナの練習中に湧き上がってくる感情は何か。日常生活で何に反応し、心を乱されるのか。なぜ自分はそのように振る舞うのか。スヴァーディヤーヤは、このような自己の内なる動きを、批判や判断を交えずに、ただ客観的に観察する修練です。

ジャーナリング(日記をつけること)や内省的な瞑想は、この自己探求のための強力なツールとなります。自分自身を正直に見つめることは、時に痛みを伴うかもしれません。しかし、自分の無意識のパターンに気づくことなしに、真の自由はありえません。スヴァーディヤーヤは、私たちを自己欺瞞から解放し、「自分はこういう人間だ」という固定化された自己イメージ(エゴ)の殻を破るための勇気を与えてくれます。それは、外的な成功や他者からの評価を求める自己啓発とは異なり、内なる真実の自己、すなわちアートマンを発見するための、静かで誠実な探求の旅なのです。

 

イーシュヴァラ・プラニダーナ(Īśvara-praṇidhāna):自在神への祈念 – 大いなる流れに身を委ねる

ニヤマの最後にして、最も精妙な実践が、イーシュヴァラ・プラニダーナです。これは「イーシュヴァラ(自在神、宇宙の根源的知性)」への「プラニダーナ(献身、全託)」を意味します。これは、私たちの行為とその結果のすべてを、自分を超えた大いなる存在に明け渡し、委ねることです。

ここでいうイーシュヴァラは、特定の宗教における人格神を指すとは限りません。『ヨーガ・スートラ』におけるイーシュヴァラは、カルマや苦悩の影響を受けない、究極の意識、あるいは理想的なヨーギーの象徴として描かれています。それは、宇宙を貫く秩序や法則、生命の源、あるいは自分自身の内なる最高の智慧として捉えることも可能です。したがって、この実践は特定の信仰を持つ人だけでなく、無神論者や不可知論者にとっても開かれています。

イーシュヴァラ・プラニダーナの実践とは、「私がやっている」「私の力で成し遂げた」というエゴの働きを手放すことです。私たちは、自分の努力が結果に結びつくことを期待し、思い通りにならないと悩み、成功すれば傲慢になります。この結果への執着こそが、私たちの心を縛り付け、苦しみを生み出す根源です。イーシュヴァラ・プラニダーナは、この執着の鎖を断ち切るための実践です。

私たちは、最善を尽くして行為(カルマ・ヨーガ)を行いますが、その結果がどうなるかは、私たちのコントロールを超えた、より大きな宇宙の采配に委ねます。成功も失敗も、すべては大いなる計画の一部として受け入れる。この全的な信頼と受容の姿勢は、私たちを結果への不安や恐れから解放し、行為そのものに純粋に集中させてくれます。

これは、サントーシャ(知足)が「今ここにあるもの」への感謝であるのに対し、イーシュヴァラ・プラニダーナは「これから起こること」への信頼と受容、と言えるでしょう。この実践が深まると、私たちは人生で起こるすべての出来事を、自己の成長のためのレッスンとして、感謝をもって受け入れられるようになります。それは、小さな自己(エゴ)の視点から、宇宙的な大いなる自己の視点へと移行することであり、ヨーガが目指す究極の解放(モークシャ)への扉を開く鍵となるのです。

 

結論:内なる庭園を育む五つの柱

ニヤマの五つの実践、シャウチャ、サントーシャ、タパス、スヴァーディヤーヤ、イーシュヴァラ・プラニダーナは、それぞれが独立した徳目であると同時に、一つの美しい曼荼羅のように織りなされています。清浄な心身(シャウチャ)は、足るを知る心(サントーシャ)を育みやすくします。自己を鍛錬する熱意(タパス)は、自己探求(スヴァーディヤーヤ)を深める力となり、その探求の果てに、私たちは大いなるものへすべてを委ねる(イーシュヴァラ・プラニダーナ)境地へと至るのです。

ニヤマは、私たちに厳しい戒律を課すためのものではありません。それは、自己の内なる世界を豊かに耕し、真の自由と喜びの花を咲かせるための、愛に満ちたガイドラインです。この実践を通じて、私たちは日々の生活の些末な悩みや欲望から解放され、より大きく、より静かで、より力強い自己の存在に気づくことができます。ヤマという社会的な調和の土台の上に、ニヤマという自己との調和の柱を打ち立てること。これこそが、アーサナやプラーナーヤーマといった後の段階の実践を、単なる身体技法から、意識を変容させるための深遠な道へと昇華させる、不可欠な準備なのです。この内なる庭園の手入れを続けることで、私たちは着実に、そして確実に、真の自己との合一、すなわちヨーガの最終目的地へと歩みを進めていくことができるでしょう。

 

 

ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。

 

 


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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。