ヨガを推奨しております。
ですが、それは「四六時中マットの上でポーズをとりなさい」という意味ではありません。
ヨガとは「生きる姿勢」そのものであり、マットの外に広がっている日常こそが、本番の実践の場だからです。
「ヨガは生活のすべてである」
古のヨギ(行者)たちが残したこの言葉を、現代風に翻訳するならばこうなるでしょう。
「映画を観ることも、お茶を飲むことも、仕事でクレーム処理をすることも、すべてがヨガの練習になり得る」と。
今日は、その中でも特に身近なエンターテインメントである「映画」を題材に、どうすればその2時間をヨガ的な修練に変えられるのか、少し深く語ってみたいと思います。
ポップコーン片手に、悟りへ近づく方法についてのお話です。
もくじ.
スクリーンは「マインド(心)」の投影である
まず、映画館という空間を想像してみてください。
暗闇の中に座り、光がスクリーンに投影され、物語が展開していきます。
私たちはその光と影のダンスに没入し、笑い、泣き、怒り、手に汗を握ります。
ヨガ哲学において、この世界(現象界)は「マーヤー(幻想)」であると言われます。
私たちの本質である「プルシャ(真我・魂)」は、スクリーンの白い幕そのものです。
本来は何も染まっていない純粋な存在。
しかし、そこに「マインド(心・思考)」というフィルムを通して光が当てられることで、人生というドラマが映し出されます。
映画を観ているとき、私たちはまさにこの「心の仕組み」を疑似体験しています。
スクリーン上の出来事は、ただの光の明滅に過ぎません。物理的にはそこに誰もいません。
しかし、私たちはそれを「現実」だと錯覚して感情を揺さぶられます。
ここで、ヨガ的な視点(観る目)を持ってみましょう。
映画に没頭しながらも、どこか冷静な意識を保ち続けるのです。
「ああ、今私は悲しいと感じているな」
「この登場人物に腹を立てているのは、私の中に似たようなエゴがあるからだな」
このように、映画という「外部の物語」を鏡にして、自分自身の「内部の反応」を観察する。
これを「スヴァディヤーヤ(自己読解・自己学習)」と呼びます。
映画は、安全な場所で自分の感情のパターンを知るための、最高のシミュレーターなのです。
主人公の旅(ヒーローズ・ジャーニー)とカルマ・ヨガ
多くの名作映画には、共通の構造があります。神話学者のジョセフ・キャンベルが提唱した「ヒーローズ・ジャーニー(英雄の旅)」です。
主人公は日常の世界から呼び出され、試練に直面し、師に出会い、恐怖を乗り越え、宝(成長)を持ち帰る。
『スター・ウォーズ』も『千と千尋の神隠し』も、基本的にはこの構造を持っています。
これは、私たち自身の魂の旅そのものです。
ヨガの教典『バガヴァッド・ギーター』は、まさにこの構造を描いた壮大な叙事詩です。
主人公アルジュナが、戦場(人生の困難)で動けなくなり、御者クリシュナ(神・高次の意識)から教えを受ける物語。
映画の中で、主人公が理不尽な運命に翻弄されながらも、やるべきこと(ダルマ)を全うしようとする姿を見るとき、私たちは「カルマ・ヨガ(行為のヨガ)」のエッセンスを学びます。
結果に執着せず、ただ目の前の行為に没頭すること。
恐怖に震えながらも、一歩を踏み出すこと。
スクリーンの中の主人公は、私たちに「どう生きるか」を身体を通して教えてくれる先生(グル)なのです。
アクション映画の主人公が、絶体絶命のピンチで見せる「諦めない心(タパス=苦行・熱)」や、コメディ映画の登場人物が見せる「失敗を笑い飛ばす軽やかさ(サントーシャ=知足)」は、マットの上で難しいポーズに挑む時の精神状態と何ら変わりありません。
「時間」と「空間」を超える体験
優れた映画は、私たちを時空を超えた旅へと連れ出してくれます。
2時間という物理的な時間は消え失せ、私たちは古代ローマの市民にもなれば、未来の宇宙飛行士にもなります。
この「没入」の体験は、瞑想における「ディヤーナ(禅定)」の状態に非常に近いです。
エゴ(自我)の境界線が薄れ、対象と一体化する感覚。
「私」という小さな殻を破り、他者の人生を生きることで、私たちは共感能力(カルナ=慈悲)を養います。
「自分とは全く違う価値観を持つ人」の視点で世界を見ることは、エゴの頑固さを解きほぐす柔軟体操のようなものです。
身体が硬い人は、思考も硬いことが多いと言われます。
映画を通して多様な人生に触れ、「そういう生き方もありなんだ」と許容範囲を広げることは、股関節を柔らかくするのと同じくらい、人生を生きやすくしてくれます。
映画選びは「食事」と同じ
ヨガでは食事(アーハーラ)を大切にします。
身体を作るものが食べ物であるように、心を作るのは「情報の摂取」だからです。
どのような映画を観るか、それはどのような魂の栄養を摂るかという選択でもあります。
サットヴァ(純質)な映画は、心を浄化し、静けさと気づきを与えてくれます。
美しい自然、人間の崇高さ、真理を描いた作品などがそうです。
一方、ラジャス(激質)な映画(過度な暴力や刺激)や、タマス(暗質)な映画(絶望や無気力を助長するもの)ばかりを観ていると、心もそのように波立ったり、重くなったりします。
もちろん、たまにはジャンクフードが食べたくなるように、刺激的な映画を楽しむのも良いでしょう。
大切なのは「自覚的であること」です。
「今、私は刺激を欲しているんだな」「少し疲れているから、優しい映画で心をマッサージしよう」
自分の今の状態に合わせて作品を選ぶこと自体が、自分を大切にするヨガの実践(アヒムサ=非暴力)になります。
観終わった後の「余韻」を味わう
映画館を出た後、あるいは自宅でテレビを消した後。
すぐにスマホを取り出して感想を検索したり、次の用事に意識を向けたりしていませんか?
ヨガの練習の最後に「シャヴァーサナ(屍のポーズ)」があるように、映画の後にも「統合の時間」が必要です。
ただ静かに、余韻を味わう。
映画から受け取ったメッセージや、揺さぶられた感情が、自分の内側に沈殿していくのを待つ。
その静けさの中で、ふと人生のヒントが降りてくることがあります。
それは、監督が意図したメッセージかもしれないし、あなたの魂が映画という触媒を使ってあなた自身に送ったメッセージかもしれません。
この「気づき」こそが、スピリチュアルな成長の種となります。
まとめ:世界すべてが教科書(スートラ)である
ヨガマットの上だけで悟ろうとするのは、プールの中だけで泳ぎを練習して、海に出ないようなものです。
映画も、音楽も、読書も、日々の会話も。
すべての中に「真理」は隠されています。
「ヨガは生活のすべてである」
そう腹を括ったとき、世界は退屈な場所から、学びに満ちた無限の教室へと変貌します。
次に映画を観るときは、ぜひ「今日はどんなアサナ(ポーズ)を心にとらせてくれるのだろう」という気持ちで、スクリーンに向き合ってみてください。
きっと、今までとは違う景色が見えてくるはずです。
ではまた。


