ヨガマットを敷き、レギンスを履いて、ポーズをとる。
現代の日本において「ヨガ」といえば、このスタイルを思い浮かべる方がほとんどでしょう。
身体を動かし、汗をかき、健康になる。もちろん、それも素晴らしいヨガの入り口であり、尊い実践の一つです。
しかし、もし私が「あなたが知っているそのヨガは、ヨガという巨大な氷山の、水面に出ているほんの一角に過ぎません」とお伝えしたら、どう思われるでしょうか。
実は、インド古来の伝統において、ヨガには大きく分けて「4つの道(マルガ)」が存在します。
私たちが普段スタジオで行っている身体的なヨガは、そのうちのたった一つの道、しかもその中のさらに一部の技法が抽出され、発展したものなのです。
今日は、その広大なヨガの全体像について、少し縁側でお話しするように、紐解いていきたいと思います。
この4つの道を知ることで、あなたのヨガは、マットの上だけでなく、人生のあらゆる場面へと広がっていくことでしょう。
もくじ.
ヨガとは「つながり」の探求
まず前提として、ヨガ(Yoga)という言葉の語源は、サンスクリット語の「ユジュ(Yuj)」。「馬にくびきをかける」「結びつける」という意味があります。
何と何を結びつけるのか。
それは「個人の魂(アートマン)」と「宇宙の根源(ブラフマン)」です。
もっと平たく言えば、バラバラになってしまった「私」という存在を統合し、本来の全体性へと還っていくプロセスのすべてがヨガなのです。
その頂上へ登るための登山ルートとして、人間の気質や性格に合わせて、古来より4つの主要な道が用意されてきました。
カルマ・ヨガ(Karma Yoga)—— 行為の道
「じっとしていられない」「人の役に立ちたい」という活動的な人に向いている道です。
カルマとは「行為」を意味します。
これは、見返りを求めず、結果に執着せず、ただ目の前のやるべきことを「奉仕」として行うヨガです。
例えば、マザー・テレサの生き方は、まさに究極のカルマ・ヨガと言えるでしょう。
特別なポーズをとる必要はありません。
職場でのお茶汲み、家庭での料理、道端のゴミ拾い。
「誰かに認められたい」「褒められたい」というエゴ(自我)の動機を手放し、その行為自体を神(あるいは全体)への捧げ物として行うとき、すべての労働はヨガへと変わります。
日常のあらゆる瞬間が修行の場となる、最も実践的な道です。
バクティ・ヨガ(Bhakti Yoga)—— 愛と信愛の道
「理屈よりも感情」「信じる心が強い」という情熱的な人に向いている道です。
バクティとは「信愛」を意味します。
神や、自分の信じる対象(グル、自然、宇宙など)に対して、自分自身のすべてを委ね、愛を注ぐヨガです。
キルタン(歌うヨガ)で神の名を唱えたり、祭壇に花を捧げたりする行為がこれにあたります。
「私」という小さなエゴを、愛という大きな炎の中に溶かしてしまうのです。
「愛する」という行為を通じて、自分と対象との境界線を消滅させ、一体感(ワンネス)に至る。
日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが、インドでは最も人気があり、多くの人が自然に実践している道でもあります。
ジャーナ・ヨガ(Jnana Yoga)—— 知識と叡智の道
「なぜ?」「私は誰か?」と問い続ける、理性的・哲学的な人に向いている道です。
ジャーナ(ニャーナ)とは「知識」を意味します。
しかし、これは本を読んで情報を詰め込むことではありません。
「真理とは何か」「永遠なるものは何か」を徹底的に理知で探求し、識別(ヴィヴェーカ)していく道です。
「私は肉体ではない」「私は感情ではない」「私は思考ではない」……。
このように、「私ではないもの」を一つひとつ否定(ネティ・ネティ)していき、最後に残る純粋な観照者(真我)を見つけ出す。
非常に険しく、鋭い知性を必要とする道ですが、迷妄のヴェールを切り裂く剣のような鋭さを持っています。
ラージャ・ヨガ(Raja Yoga)—— 瞑想と心理的制御の道
そして最後が、「王(ラージャ)のヨガ」と呼ばれる道です。
これは、瞑想によって心の波立ちを鎮め、精神を統一する実践です。
有名な経典『ヨガ・スートラ』は、このラージャ・ヨガの教本です。
私たちが普段行っている「ハタヨガ(身体を動かすヨガ)」は、実はこのラージャ・ヨガの準備段階として位置づけられています。
いきなり座って瞑想しようとしても、身体が痛かったり、呼吸が乱れていたりしては集中できません。
だから、まずはアーサナ(ポーズ)で身体を整え、プラーナヤーマ(呼吸法)で気を整える。
そうして、健やかで静かな器を作った上で、深い瞑想(ディヤーナ)へと入っていくのです。
現代の「ヨガ」の多くは、このラージャ・ヨガへの階段の、最初の1、2段目(身体技法)を切り取って、エクササイズとして発展させたものと言えるでしょう。
あなたのヨガは、どこにありますか?
こうして全体を眺めてみると、ヨガがいかに懐の深いものであるかがわかります。
身体が硬くても、ポーズができなくても、ヨガはできます。
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誰かのために見返りを求めず働くなら、あなたはカルマ・ヨギです。
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自然の美しさに涙し、感謝を捧げるなら、あなたはバクティ・ヨギです。
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「自分とは何か」を深く問い続けるなら、あなたはジャーナ・ヨギです。
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そして、静かに座り、呼吸を見つめるなら、あなたはラージャ・ヨギです。
もちろん、これらは完全に独立しているわけではありません。
山の登り口が違うだけで、目指す頂上は同じです。
そして、熟練した登山家が複数のルートを知っているように、私たちも状況に応じてこれらの道を使い分けることができます。
マットの上で身体を動かすときは、ラージャ・ヨガ的アプローチで。
仕事中は、カルマ・ヨガの精神で。
悩んだときは、ジャーナ・ヨガの知恵で。
そして、家族や友人と接するときは、バクティ・ヨガの愛で。
そう考えると、私たちの24時間すべてが、ヨガの実践になり得ることがわかります。
「ヨガをする」のではなく、「ヨガとして生きる」。
ENGAWA YOGAが目指しているのも、まさにそんな、暮らしの中に溶け込んだ全体的なヨガのあり方なのです。
さあ、マットを降りた後も、ヨガは続いています。
今日のあなたは、どの道を選んで歩みますか?



