インド哲学の広大な森の、最も奥深く、光に満ちた場所に分け入っていくことにしましょう。そこは「ヴェーダーンタ」と呼ばれる領域です。ヴェーダーンタ(Vedānta)とは、サンスクリット語で「ヴェーダの終極(anta)」あるいは「ヴェーダの究極的結論」を意味します。その名の通り、古代から続くヴェーダ聖典の思索の頂点、特にその哲学的核心であるウパニシャッドの教えを、体系的に探求し、解釈する学派の総称がヴェーダーンタ哲学なのです。
ウパニシャッドが、師から弟子へと密かに伝えられる直観的で詩的な「奥義書」であったとすれば、ヴェーダーンタ哲学は、その奥義を理性の光に照らし、論理の言葉で再構築しようとする壮大な試みでした。その中心的なテキストは、バーダラーヤナによって編纂されたとされる『ブラフマ・スートラ』です。この経典は、ウパニシャッドに散りばめられた深遠な真理を、極度に簡潔な箴言(スートラ)形式で整理したものであり、後のヴェーダーンタ哲学者たちは、この『ブラフマ・スートラ』とウパニシャッド、そして『バガヴァッド・ギーター』という三つの聖典群(プラステーナ・トライー)に独自の注釈を施すことで、自らの哲学体系を構築していきました。
しかし、不思議なことに、同じ源流から水を汲みながら、彼らが築き上げた哲学の庭園は、驚くほど多様な景観を呈しています。それはなぜでしょうか。ウパニシャッドの言葉が、詩的であるがゆえに多義的であったこと、そして時代の思想的要請(特に仏教思想への応答)や、民衆の精神的渇望が異なっていたことが大きな要因です。これから、このヴェーダーンタ哲学という大河を形成した三人の巨匠、シャンカラ、ラマーヌジャ、マドヴァの思想の旅に出ることにしましょう。彼らの思索の軌跡を辿ることは、ブラフマン(宇宙の根源)とアートマン(個の根源)という究極の問いに対して、人間がいかに多様で、深く、そして真摯に向き合ってきたかを知る旅でもあるのです。
もくじ.
シャンカラと不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ):すべてはブラフマンという大海に帰す
ヴェーダーンタ哲学の歴史において、燦然と輝く巨星、それが8世紀初頭に現れたシャンカラです。彼が確立した「不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)」は、その後のインド思想、ひいては世界の精神史に計り知れない影響を与えました。アドヴァイタとは「二ではない(a-dvaita)」、つまり「一である」ことを意味します。
シャンカラの哲学の核心は、次の有名な半句に集約されます。
「ブラフマンのみが実在であり、この現象世界は幻(マーヤー)である。そして、個我(ジーヴァ)はブラフマンと同一であり、それ以外の何ものでもない」
この言葉を一つひとつ丁寧に解きほぐしていく必要があります。
まず、「ブラフマンのみが実在である」とはどういうことか。シャンカラは、ブラフマンを二つのレベルで捉えました。一つは、私たちの思考や言葉では捉えられない、一切の属性を持たない(ニルグナ)絶対的なブラフマン。これが究極的な真理(パーラマールティカ)のレベルにおける実在です。もう一つは、私たちが神として信仰し、祈りを捧げる対象となる、創造主、維持者、破壊者といった属性を持つ(サグナ)ブラフマンです。これは、現象世界(ヴィヤヴァハーリカ)のレベルにおける、いわば仮の姿の神です。
次に、「この現象世界は幻(マーヤー)である」という衝撃的な宣言。これは、世界が全くの「無」であると言っているのではありません。シャンカラが用いた巧みな比喩に「蛇と縄」の譬えがあります。薄暗がりで地面にある縄を蛇と見間違える。そのとき、蛇は「ある」のでしょうか、それとも「ない」のでしょうか。完全に「ない」わけではありません。なぜなら、そこに「縄」という基体が存在するからです。しかし、私たちが認識している「蛇」は、明らかに実在ではありません。光が当たれば、それが縄であったと気づき、蛇という誤った認識は消え去ります。
この比喩における「縄」がブラフマンであり、「蛇」が私たちの認識するこの現象世界です。世界は、ブラフマンという唯一の実在の上に、私たちの無知(アヴィディヤー)によって投影された幻影(マーヤー)にすぎない、とシャンカラは説きました。それは夢のようなものです。夢を見ている間、その世界はリアルですが、目覚めればその非実在性が明らかになる。同様に、私たちが真の知識(ジュニャーナ)に目覚めるとき、この世界の幻としての性質が明らかになるのです。
そして最後に、最も重要な「個我(ジーヴァ)はブラフマンと同一である」という梵我一如の思想。アートマンとブラフマンは本質的に一つである、というウパニシャッドの核心的メッセージを、シャンカラは徹底的に純化しました。私たちが「私」と思っているこの身体や心、個性は、幻である現象世界に属する仮の姿にすぎません。それは、大海から汲み出された壺の中の水のようなものです。壺という制約がある間、水は「壺の水」として個別の存在のように見えますが、壺が砕ければ、水は元の大海に還り、一体となる。私たちの真我(アートマン)も、身体や心という「壺」が砕けるとき、つまり無知が破られるとき、無限なるブラフマンという大海そのものであることが明らかになるのです。
では、どうすれば解脱に至れるのか。シャンカラは、行為の道(カルマ・ヨーガ)や信愛の道(バクティ・ヨーガ)を心の浄化の準備段階として認めつつも、最終的な解脱は「知識(ジュニャーナ)」によってのみもたらされると強調しました。正しい師の下で聖典を学び、思索し、そして「我はブラフマンなり(Aham Brahmāsmi)」という真理を瞑想によって直接体験すること。これこそが、輪廻の苦しみから解放される唯一の道だと説いたのです。
シャンカラのこの徹底した一元論は、当時、精緻な論理で「空(シューニャター)」を説き、インド思想界を席巻していた仏教、特に中観派の思想に対する、ヒンドゥー教側からの鮮やかな応答でした。あまりに仏教の論理と似ていたため、彼は政敵から「仮面の仏教徒」と揶揄されることさえありましたが、彼は「空」という消極的な表現ではなく、「ブラフマン」という積極的な実在を立てることで、ウパニシャッドの伝統を再興し、ヒンドゥー教思想の理論的支柱を打ち立てたのでした。
ラマーヌジャと限定不二一元論(ヴィシシュタ・アドヴァイタ・ヴェーダーンタ):神の身体として輝く世界
シャンカラの厳格で知的な哲学から約三世紀後、11世紀の南インドにラマーヌジャという思想家が現れます。彼の哲学は、シャンカラの思想に違和感を覚えていた人々の心、特に人格神への熱烈な信仰(バクティ)を重んじる人々の魂を深く捉えました。
ラマーヌジャが提唱したのは「限定不二一元論(ヴィシシュタ・アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)」です。これは、シャンカラの一元論を認めつつも、それに重要な「限定(ヴィシシュタ)」を加えるものです。
彼の思想の核心は、ブラフマンは確かに唯一の実在であるが、それは属性を一切持たない空虚なものではなく、無数の吉祥なる属性を持つ人格神(ヴィシュヌ神)である、という点にあります。そして、個々の魂(チット)と物質世界(アチット)は、シャンカラが言うような幻(マーヤー)ではなく、神の「属性」あるいは「身体」として、神の内において実在すると考えました。
ここに、両者の決定的な違いが現れます。シャンカラにとって、多様性のある世界は克服されるべき無知の産物でした。しかしラマーヌジャにとって、この多様性に満ちた世界は、神の栄光と豊かさの現れであり、肯定されるべき神の身体なのです。海と波を考えてみましょう。シャンカラは、波は海という実在に付随する仮の姿であり、本質は海そのものであると見ます。一方、ラマーヌジャは、波は海と別のものではないが、波としての固有の形や性質もまたリアルな実在であり、それらが集まって海の豊かさを構成している、と捉えるのです。
この思想は、解脱への道筋にも大きな違いをもたらしました。ラマーヌジャは、知識(ジュニャーナ)や行為(カルマ)の重要性を認めつつも、それだけでは不十分だと考えました。最終的に解脱をもたらすのは、神への絶対的な信愛(バクティ)と帰依(プラパッティ)であると説きます。それは、あたかも子供が親に全面的に身を委ねるような、無条件の愛と信頼です。私たちが熱心に神を愛し、祈り、奉仕するとき、神はその恩寵によって私たちを救い、解放してくれるのです。
解脱後の状態も異なります。シャンカラにおいては、個我はブラフマンに完全に融合し、個としての区別はなくなります。しかしラマーヌジャにとっては、解脱後も魂は個としてのアイデンティティを保ち続けます。そして、神の住まう至高の世界で、永遠に神に仕え、神との愛に満ちた交わりを楽しむのです。
ラマーヌジャの哲学は、シャンカラの知的で厳しい道を歩むことができない多くの人々にとって、救いとなりました。それは、この感覚的に捉えられる世界を肯定し、人格神への愛という情熱的な感情を解脱への道として認める、温かく、包括的な思想でした。南インドで花開いたバクティ運動という民衆の熱烈な信仰エネルギーを、ヴェーダーンタ哲学の体系へと昇華させたのが、ラマーヌジャの最大の功績と言えるでしょう。
マドヴァと二元論(ドヴァイタ・ヴェーダーンタ):神と魂、その永遠なる差異
13世紀、ヴェーダーンタ哲学の舞台に、さらなる個性的な思想家、マドヴァが登場します。彼は、シャンカラの一元論はもちろん、ラマーヌジャの限定された一元論さえも否定し、「二元論(ドヴァイタ・ヴェーダーンタ)」という、きわめて明快かつ徹底した哲学を打ち立てました。ドヴァイタとは、その名の通り「二元」を意味します。
マドヴァの思想の根幹は、至高の実在である神(ブラフマン、すなわちヴィシュヌ神)、無数の個我(ジーヴァ)、そして物質世界(ジャガット)の三者は、それぞれが永遠に独立した実体であり、決して混同されることはない、という主張にあります。シャンカラが説いた「梵我一如」は、マドヴァに言わせれば、聖典の誤読であり、最も危険な異端思想でした。
彼は、この世界のあらゆる存在の根底には「五つの根本的差異」が永遠に存在すると説きました。
-
神と個我の差異
-
神と物質の差異
-
個我と物質の差異
-
個我と個我の差異(魂は一つひとつ異なり、序列さえある)
-
物質と物質の差異
この徹底した差異の哲学は、何を意味するのでしょうか。それは、まず第一に、神の絶対的な超越性を確保するためです。神は創造主であり、私たちは被造物である。両者の間には、決して越えることのできない質的な断絶があります。第二に、この世界のリアリティを擁護するためです。私たちが経験するこの世界も、私たち自身の個性も、幻などではなく、神によって創造された厳然たる事実なのです。
マドヴァの哲学における解脱への道は、神への純粋な信愛(バクティ)と奉仕に尽きます。個我は自力で解脱することはできず、ただ神の恩寵によってのみ救われる。そのために、私たちは神の偉大さを知り、神を愛し、神に仕えなければならないのです。
そして、解脱後の魂は、ラマーヌジャの場合と同様に、個としての存在を保ち続けます。それぞれの魂は、その本性に応じた至福の状態で、永遠に神を讃え、神に仕えるのです。それは、主君と家臣の関係にも似ています。家臣がどれだけ忠誠を尽くしても主君そのものにはなれないように、魂はどれだけ神を愛しても神と同一になることはない。しかし、そこにこそ、奉仕する喜びと、愛する対象を持つ幸福がある、とマドヴァは考えたのです。
マドヴァの二元論は、一元論的な思想がもたらす汎神論的な曖昧さを排し、論理的な明晰さと、信仰の対象としての神の絶対性を強く求める人々の心に響きました。彼の思想は、インド哲学におけるリアリズムの系譜に連なるものであり、世界の多様性と個の独自性を力強く肯定する哲学として、独自の地位を築いています。
結論:一つの源流から生まれた三つの大河
シャンカラ、ラマーヌジャ、マドヴァ。同じウパニシャッドの森を彷徨いながら、彼らが見出した道はかくも異なっていました。
-
シャンカラは、一切の現象を乗り越えた先にある、静寂なる「一」なる実在を観ました。彼の道は、知性の極限で自己を消滅させ、無限なるブラフマンと合一することを目指す、峻厳な求道者の道です。
-
ラマーヌジャは、多様性の中に「一」なる神の愛と栄光を見出しました。彼の道は、世界と自己を神の身体として愛し、情熱的な信愛によって神との永遠の交わりを求める、愛に生きる魂の道です。
-
マドヴァは、「一」と「多」の間に越えられない壁、つまり絶対的な差異を見ました。彼の道は、世界のリアリティと神の超越性を認め、忠実な奉仕と信仰によって神の恩寵を求める、誠実な信奉者の道です。
これらの思想は、単に哲学的な優劣で語られるべきものではありません。むしろ、人間の精神が「究極の実在」と向き合う際の、根源的に異なる三つのタイプを象徴していると見るべきでしょう。知的な探求によって真理に至ろうとする者、愛と帰依によって救いを求める者、そして論理的な確実性の中に信仰の基盤を置こうとする者。ヴェーダーンタ哲学は、これらすべての精神的要請に応えるための、豊かで多様な選択肢を用意してくれたのです。
このヴェーダーンタの哲人たちの思索を辿ることは、古代インドの思想を学ぶに留まりません。それは、「本当の自分とは何か」「この世界とは何か」「神とは何か」という、私たち自身の根源的な問いに対する答えのヒントを探す旅でもあります。シャンカラは現象の奥にある本質を見抜く目を、ラマーヌジャは多様性の中に調和を見出す心を、そしてマドヴァは他者との違いを尊重する姿勢を、現代に生きる私たちに教えてくれているのかもしれません。ヴェーダーンタという大河の流れは、今なお私たちの精神の土壌を潤し続けているのです。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。






