「あなたは、どのような人間ですか?」
もし、こう問われたなら、私たちは何と答えるでしょうか。
職業、出身地、家族構成。あるいは、趣味や特技を挙げる人もいるかもしれません。しかし、心の奥深くで、私たちは無意識のうちに、別の何かによって自分を定義していないでしょうか。
「私は、〇〇というブランドの服を着て、△△という最新のスマートフォンを持ち、□□という街の家に住んでいる人間です」。
このように、自らが「所有」しているモノのリストによって、自己の輪郭を描き出そうとする在り方。これこそが、現代を生きる私たちの多くが、知らず知らずのうちに陥っている、ある種の「病」なのかもしれません。
この記事は、この「所有による自己定義」という、脆く、そして危険な生き方からいかにして脱却し、より確かな大地に根ざした自己を見出していくか、その道筋を探る試みです。
所有とアイデンティティ ― なぜモノが「私」になるのか
私たちが所有物を通して自分を語ろうとする傾向は、決して個人的な虚栄心の問題だけに帰結するものではありません。そこには、近代以降の社会、特に資本主義が成熟していく過程で形成された、根深い歴史的背景が存在します。
かつて、多くの人々が共同体の中に生まれ、その中で与えられた役割(農民、職人、武士など)を生きることが、自己のアイデンティティの基盤となっていました。しかし、近代化とともに人々は共同体から切り離され、「個人」として生きることを求められます。そのとき、「私は何者か」という問いが、すべての人にとって切実な課題となったのです。
この問いに対する、資本主義社会が用意した最も手軽な答えが、「何を所有し、何を消費するかによって、あなた自身を定義しなさい」というものでした。どの車に乗るか、どの家に住むか、どの服を着るかが、その人の社会的地位や経済力、さらにはセンスや価値観までも示す記号となったのです。
そして、SNSの登場は、この傾向を決定的に加速させました。私たちは、自らの所有物を写真に収め、ディスプレイすることで、他者からの「いいね」という形での承認を求めます。そこでは、「見られるための私」が肥大化し、私たちは常に他者の視線を内面化した、いわば自分自身の観客として生きることを強いられます。
この生き方には、少なくとも三つの深刻な問題が潜んでいます。
■不安定さ: 所有物は、災害、盗難、経済状況の変化など、様々な理由でいつか失われる可能性があります。もし、モノが自己の基盤であるならば、それを失ったとき、自己そのものが崩壊の危機に瀕するでしょう。
■他者依存: このゲームのルールは、常に他者との比較です。隣の人がより良いモノを手に入れれば、自分の持っているモノは色褪せて見え、自己評価はたちまち揺らいでしまいます。他者の評価という、自分ではコントロール不能なものに、自らの価値を委ねてしまうことになるのです。
■空虚さ: モノは、私たちの心の根源的な渇きを癒すことはできません。一つのモノを手に入れても、その満足感はすぐに薄れ、また新たな渇望が生まれるだけです。それは、まるで塩水を飲むようなもので、飲めば飲むほど、喉の渇きは増していくのです。
「私」の再定義 ― 東洋思想からのアプローチ
では、所有物という砂上の楼閣ではない、より確かな自己の基盤はどこに見出せるのでしょうか。ここで、東洋の深遠な思想が、私たちに全く異なる視点を提供してくれます。
古代インドのウパニシャッド哲学は、「アートマン(真我)」という概念を提示しました。アートマンとは、私たちの身体や、移ろいやすい心(思考や感情)、そしてもちろん所有物といった、表面的な自己の奥にある、不変なる本当の自己を指します。ヨガや瞑想は、このアートマンに到達するための実践的な方法論でした。所有物どころか、この身体や心さえも「本当の私ではない」と見なす、ラディカルな自己探求の道です。
一方、仏教は「無我」という、さらに根源的な視点を説きます。これは、アートマンのような固定的で不変な「私」という実体すら、存在しないという教えです。では、もし「私」が存在しないのなら、ここにいるこの存在は何なのでしょうか。仏教は、それを「縁起」という言葉で説明します。私たちは、無数の原因と条件(縁)が絡み合う、巨大な関係性のネットワークの中で、一時的に立ち現れている現象に過ぎない、というのです。
この「無我」や「縁起」の思想は、ともするとニヒリズムのように聞こえるかもしれません。しかし、見方を変えれば、これは私たちを孤独な「個人」という檻から解放してくれる、極めて豊かな世界観でもあります。
「私」を定義するのは、私が持っているモノではありません。それは、私を取り巻く「関係性」なのです。親として、子として、友人として、師として、弟子として。あるいは、地域社会の一員として、自然の一部として。他者や世界との関わりの中で交わされる言葉や眼差し、そして行為の積み重ねの中にこそ、「私」という存在は立ち現れてくる。所有物は「私」を飾り立てるかもしれませんが、関係性は「私」を形作るのです。
新しい自己の在り方へ ―「あり方」と「行い」による定義
所有によって自己を定義する生き方から脱却することは、新しい自己の物語を紡ぎ始めることに他なりません。その物語の主軸となるのは、「何を持っているか(What I have)」ではなく、「どうあるか(How I am)」そして「何をするか(What I do)」です。
1. 「あり方(Being)」への転換:
自分自身を、所有物のリストではなく、性質や状態を表す言葉で語ってみる。「私は、親切であろうとする人間です」「私は、誠実であることを心がけています」「私は、常に学び続けたいと願う存在です」。このような「あり方」は、モノのように誰かに奪われることも、時代遅れになることもありません。それは、日々の実践を通して、自らが育んでいく内なる資産です。
2. 「行い(Doing)」による定義:
自己を、静的な名詞ではなく、動的な動詞で捉えること。何かを所有することではなく、何かを行うこと、そのプロセス自体にアイデンティティの基盤を置くのです。本を読む、庭の手入れをする、誰かの話に耳を傾ける、新しい料理に挑戦する。これらの「行い」の蓄積が、他ならぬ「私」という人間の輪郭を形作っていきます。
ヨガや瞑想の実践は、この転換を力強く後押ししてくれます。静かに座り、自らの呼吸や身体の微細な感覚に意識を向けるとき、私たちは「〇〇を持っている私」という観念から離れ、ただ「今、ここに、存在する私」という、最も根源的な自己感覚に立ち返ることができます。身体という、決して所有も交換もできない、この与えられた現実こそが、私たちの存在の最も確かなアンカーとなるのです。
この旅は、所有物をすべて捨て去るというような、極端な行為を要求するものではありません。むしろ、自らの内面で静かに起こる、価値観の革命です。
次に何かを手に入れたいという欲求が湧き上がってきたとき、自問してみてください。
「私は、これを所有することで、本当は何を手に入れようとしているのだろうか?」
承認か、安心か、それとも優越感か。その欲求の根源にある、心の渇きに気づくこと。そして、その渇きを、モノではない別の何か―人との温かな交流や、創造的な活動、あるいは内なる静けさの探求―によって潤すことはできないかと、静かに模索してみること。
所有によって自己を定義する生き方は、他者によって書かれた脚本を演じるようなものです。そこからの訣別は、自らの手で、自らの人生の脚本を書き始めるという、最も創造的で、最も人間らしい営為の始まりに他ならないのです。


