ヨガの実践を推奨しております。
そして同時に、暮らしを「ミニマル」にしていくこともおすすめしております。
なぜなら、生活空間の余白と、ヨガの深まりには、密接な相関関係があるからです。
ミニマルにすると、間違いなくヨガは捗ります。
「部屋が散らかっていてヨガをするスペースがない」
「ヨガを始めたいけれど、道具を揃えるのが大変そう」
そういった声をよく耳にします。
しかし、本来のヨガを考えたとき、それは少し順序が逆転しているのかもしれません。
ヨガをするために何かを準備するのではなく、ヨガをするために「余計なものを手放していく」。
このプロセスそのものが、すでにヨガの実践(サドゥナ)なのです。
今日は、モノを持たない「ミニマルな暮らし」がいかにヨガの本質に近づく助けになるか、そして現代社会が抱える「過剰さ」の問題も含めて、少し深く掘り下げてみたいと思います。
もくじ.
ヨガは「引き算」のプロセスである
まず、ヨガという営みの本質について触れておきましょう。
現代の商業的なヨガシーンを見渡すと、どうしても「足し算」の要素が目につきます。
最新のウェア、高機能なマット、ブロックやベルトなどのプロップス、アロマオイルにシンギングボウル。
「これがあればもっとヨガが深まる」という宣伝文句と共に、私たちは多くのモノを所有することを促されます。
しかし、ヨガの起源に立ち返れば、そこに必要なものはほとんどありません。
極端な話をすれば、あなたの「身体」と「呼吸」、そして「畳一畳分のスペース」。
これさえあれば、ヨガは成立します。
人によっては、マットさえも不要で、大地の上や床の上でそのまま行うことも可能です。
ヨガとは、外側から何かを付け足して自分を飾ることではありません。
むしろ、自分にこびりついた余計な力み、思考の癖、社会的な肩書き、そして物質への執着を、一枚ずつ玉ねぎの皮をむくように剥がしていく作業です。
つまり、ヨガは徹底した「引き算」のプロセスなのです。
ですから、身の回りの環境をミニマルにしていくことは、ヨガの精神性と完全に一致する方向性と言えるでしょう。
現代社会の「埋める病」とスペースの喪失
私たちは今、「空虚恐怖症」とも言えるような社会に生きています。
隙間があればモノで埋め、静寂があれば音で埋め、暇があれば情報で埋めようとします。
都市の住宅事情もありますが、多くの人の部屋はモノで溢れかえっています。
「ヨガをやる場所などない」という嘆きは、物理的な面積の問題以上に、心のスペースの問題を映し出しています。
部屋の状態は、心の状態を映す鏡です。
床が見えないほどモノが散乱している部屋で、心静かに瞑想ができるでしょうか?
視界に入るノイズ(モノ)は、そのまま脳への刺激となり、集中を阻害します。
ヨガの八支則に「サウチャ(清浄)」という教えがありますが、これは身体を清潔に保つだけでなく、身を置く環境を整えることも含みます。
物理的なスペースを確保することは、精神的なスペース(ゆとり)を確保することと同義なのです。
まずは、余計なものを手放すことから
では、どうすればよいのでしょうか。
答えはシンプルです。余計なものを手放していくのです。
これはヨガでいう「アパリグラハ(不貪・不所有)」の実践です。
自分にとって、あるいは家族全員にとって、本当に必要なものは何かを問い直す作業です。
「いつか使うかもしれない」という不安から保管しているモノ。
「高かったから」という執着で捨てられないモノ。
「人からどう見られるか」を気にして持っているモノ。
これらはすべて、あなたのエネルギーを吸い取る「重り」です。
ヨガマットを敷くスペースがないというのは、過去の遺物に現在のスペースを占領されている状態とも言えます。
「今、ここ」を生きるためのスペースを、過去の執着が奪っているのです。
思い切って手放してみましょう。
モノが減ると、部屋の空気が変わります。
風通しが良くなり、光が差し込み、そこに「気(プラーナ)」が流れ始めます。
その清々しい空間こそが、最高のヨガスタジオなのです。
「手放す強化週間」を作る
いきなりすべてを捨てるのは難しいかもしれません。
そこで、「手放す強化週間」を設定してみてはいかがでしょうか。
これは一種の「タパス(苦行・熱)」、つまり意志を持って取り組む修行です。
例えば、1週間だけ、毎日ゴミ袋一つ分、不要なものを手放す。
あるいは、部屋の一角、例えば「縁側」や「窓際」のスペースだけは徹底的にモノを置かない聖域にする。
本棚の整理、クローゼットの見直し、キッチンの断捨離。
一つ手放すごとに、心の澱(おり)も一緒に外に出ていくイメージを持ってください。
このプロセスを通じて、私たちは「自分にはこれだけで十分だ」という「サントーシャ(知足)」の感覚を養うことができます。
モノが減れば減るほど、逆に豊かさを感じる。
この逆説的な体験こそが、ヨガ的な気づきへの第一歩です。
実際にヨガマットを敷いて、自己練習をする
空間ができたら、そこにヨガマットを敷いてみましょう。
ミニマルな部屋に、ぽつんと敷かれた一枚のマット。
それは、日常の空間の中に現れた、あなただけの「聖域(サンクチュアリ)」です。
マットを敷くという行為そのものが、意識を日常モードからヨガモードへと切り替えるスイッチになります。
自己練習(セルフプラクティス)のすすめです。
スタジオに通うのも良いですが、自分の部屋で、誰の目も気にせず、自分のペースで行うヨガには格別の味わいがあります。
ボロボロのTシャツで構いません。
誰かに見せるためのヨガではなく、自分の内側と対話するためのヨガ。
周りに余計なモノがなければ、視覚情報が遮断され、自然と意識は内側へと向かいます(プラティヤハラ=制感)。
ミニマルな環境は、深い集中状態(ダーラナ)への滑走路となるのです。
継続してみる:環境が意志を支える
「継続は力なり」と言いますが、意志の力だけで続けるのは困難です。
人間は弱い生き物ですから、障害物があればすぐに言い訳を見つけてやめてしまいます。
「マットを出すのが面倒」「片付けないと場所がない」
これらは最大の挫折要因です。
しかし、部屋が常にミニマルで、床が空いていればどうでしょうか。
マットを敷きっぱなしにしておくことさえできるかもしれません。
思い立った瞬間に、すぐに太陽礼拝ができる環境。
環境を整えることは、意志の力を節約することに繋がります。
ミニマルな生活は、ヨガを「特別なイベント」から「歯磨きのような日常」へと変えてくれるのです。
終わりに:何もないからこそ、すべてがある
モノを減らし、情報を減らし、思考を減らしていく。
ミニマルにすることは、単に部屋を綺麗にすることだけが目的ではありません。
それは、私たちを覆っている分厚い「エゴの殻」や「社会的な定義」を削ぎ落とし、その奥にある純粋な生命の輝き(プルシャ)に出会うための準備です。
何もない部屋で、ただ座り、呼吸をする。
すると、今までモノに埋もれて聞こえなかった、微かな身体の声や、心の奥の静寂が聞こえてくるはずです。
「ああ、私には何もなくても、こんなに満たされているんだ」
そう気づいたとき、あなたのヨガは真の意味で「捗っている」と言えるでしょう。
必要最小限のもので、最大限の自由を味わう。
そんな軽やかな心身で、今日という一日を過ごしてみませんか。
ではまた。


