瞑想を推奨しております。
瞑想することで人生が楽になるからです。
楽というのは、イージーというよりかはシンプルになるというイメージです。
瞑想は手放すということです。
行為を手放すことであって、行為を増やすことではありません。
呼吸法も瞑想には不要となっていきます。
私たちは何かを「得る」ことばかりです。
資本主義社会は「得る」ことを強制してくるでしょう。
「このカバンを購入して所有するとあなたは何者かになれる」と煽ってきます。
もちろん、カバンだけでなく、フィットネスも食事も全部です。
瞑想は得るものではなく手放すものです。
私たちがしたいことは「得る」のではなく、何を「手放す」のかということです。
足す人生から、減らす人生へ。
静かにただ座る、という時間が私たちの日常に何をもたらしてくれるのでしょうか。
私自身、20代の始めからでしょうか、この静かな瞑想の実践を日々の暮らしの中に置いてきました
もちろん失敗もたくさんしながらの瞑想体験です。
「波動の法則」という書物で、瞑想とは私たちの意識の周波数を変える営みである、という一節に出会い、深く惹きつけられたことを今でも覚えています。
私たちは、日常のほとんどを「瞑想的ではない」状態で過ごしているのかもしれません。
だからこそ、意識して瞑想的な時間を持つことで、言いようのない心地よさや、本来の自分に還っていくような安らぎを感じるのでしょう。
そして、その時間がエゴから離れている時間となります。
エゴというのは自分さえ良ければいいという小さな世界観です。
瞑想の静けさの中でしか触れることのできない、あなた自身の深い領域というものがあります。
瞑想は、その場所への扉を開いてくれるのです。それは、過去や未来という思考が作り出す物語から離れ、このリアルな現実、すなわち「今、ここに在る」という純粋な体験へと私たちを導いてくれる時間でもあります。
なかなかに難しいところもありますが、それでも瞑想の時間はとても大事な時間になります。
思考という世界ではなく、もっと大きな世界での充足がそこにはあります。
もくじ.
瞑想とは、人生で抱えているものを静かに降ろすこと
瞑想という営みは、何か新しい知識や能力を「得る」という方向性を持つものではありません。むしろ、これまで無意識に抱え込んできたものを、一つひとつ丁寧に「手放していく」という方向性を持った実践なのです。
私たちは日々、どれほど多くのものを背負って生きているでしょうか。責任、期待、過去の後悔、未来への不安。時にそれらは、抱えきれないほどの重荷となって、私たちの肩にのしかかっているのかもしれません。
すべてはただの投影であることを瞑想で気付かされます。(気づいてしまうと勝手に人生の道も開けます)
瞑想とは、そうした人生の重荷を、そっと地面に降ろす時間です。荷を下ろす時間でもあるのです。
ただ座っているだけに見えるかもしれませんが、その内側では、存在の根源的な状態、すなわち「いま、ここに在る」という実存へと深く降りていきます。
深く降りた先に何があるかは、あなたの解釈に任せます。
そのとき、私たちの内側ではすべてが「フラット」になっています。
良いも悪いも、好きも嫌いも、重要も些末も、あらゆる二元的な判断の波が静まり、ただ静かな湖面のような境地が広がっているのです。
すると不思議なことに、あれほど重かったはずの荷物が、自然と身体から離れていくのを感じます
誰かに強制されるのではなく、自らの内側から「これはもう、私には必要ないのだな」という静かな気づきが訪れ、こだわりや執着が薄らいでいくのです。
いろんなところで背負ってきた荷物が、実は何も必要なかったことに気づくのです。
川下りに来ているのに、パラシュートを背負っているくらいに場違いを感じることでしょう。
小学生の頃のテストの点数を気にしているような感覚にもなり、笑いも起こることでしょう。
そのぐらいに、不要なものを私たちはかき集めているのです。
その重荷は、あなた自身が「決めている」ということ
では、そもそも「重荷」とは一体何なのでしょうか。
ある出来事が重荷になるというのは、私たちがそれに過剰な意味や重要性を与え、それを「大事なことだ」と強く認識しているからに他なりません。
重要だと思えば思うほどに、その荷物も重くのしかかります。
歩くのも大変になり、疲弊していきます。
頑張っていても報われない気持ちになります。
背負っている荷物それ自体に私たちの貴重な生命エネルギーが絶えず注がれています。
そして「大事だ」と思っているが故に、手放すことが恐ろしくなり、強い執着の対象となってしまうのです。
つまり、その重荷を生み出しているのは、他の誰でもない、あなた自身の心の働きなのです。あなたの重要性が荷物を作り出しているのです。
同じ出来事に遭遇しても、それを全く重荷と感じない人もいるでしょう。それは、その人にとって、その事柄の重要度が低いからです。
まぁいいかと流せるからです。
流せる人と聞くと怠惰な人を思い浮かべる人もいるかもしれませんが、それは逆です。
その物事に対して気楽なので、気軽に取り組めるのです。極端に言えばトラウマがあると取り組みにくいですが、そういった記憶がなければ素直に取り組めます。
瞑想は、私たちが作り上げたその「重要度」という名のポテンシャルを解放し、すべてをフラットな視点から眺めることを可能にします。
その静けさの中から世界を見渡したとき、私たちは「問題」だと思っていたものが、そもそも存在しなかったことに気づかされるのかもしれません。
そのための時間です。
だから、得るのではなく手放すのです。
行為をふやすのではなく、行為をやめていくのです。
瞑想の中では、何もしなくていい
瞑想の実践において、あなたは基本的に何もする必要はありません。
何かを達成しようとしたり、思考を無理に止めようとしたりする必要はないのです。
ただ、「在る」という純粋な感覚の中に、深く寛いでいればそれでいいのです。
自分の静寂へと入っていくだけでございます。
何をしても、何をしなくても、あなたの本質はただここに在り続けます。
その揺るぎない事実を信頼し、ただ身を委ねてみる。目の前の現象に一喜一憂したり、すべてを自分の力で解決しなければならないという強迫観念から自由になる。
ただ座り、自分の内側にある生命の働きを静かに信じる。
瞑想をややこしくしないことです。
とはいえ、ただ座って緩めるだけ(これがSIQANの本質です)と言われると、もしかしたら、それは少し難しく感じられるでしょうか。
その「難しさ」という感覚さえも、手放していく先に、本当の安らぎが待っていると感じています。

座禅と瞑想、その道のりについて
私自身は座禅を深く学んだわけではありませんが、実践されている方のお話などを伺うと、瞑想とは似て非なる風景が広がっているようにも感じます。
座禅は「只管打坐(しかんたざ)」と言われるように、目的や手段を設けず、ただひたすらに座ります。一方、ヨガの瞑想には火を見つめるものやマントラを唱えるものもあります。少し異なるものです。
真言宗の阿字観のように梵字を見つめるもの、月輪観のように月をイメージするもの、ヴィパッサナー瞑想のように身体の感覚を観察し続けるものなど、多様なアプローチが存在します。
しかし、その道のりが異なっていても、目指す方向は同じです。
それは「心身一如」であり、宇宙と自己が一つであると知る「梵我一如」の境地でしょう。
その境地を目指す方向さえ間違えなければ良いということです。
どちらの道から入るかは、ご自身の感覚にしっくりとくる方を選ばれるのがよろしいかと思います。私が行う瞑想も、どちらかといえばこの只管打坐に近い、シンプルなものであることが多いです。
SIQANは「ただゆるめること」に集中するシンプルな瞑想法です。ゆるめるというとても基本的なことだけにフォーカスを当てていきます。わかりやすいかと思います。
ただ静かに座っていると、自分の内側で命そのものが静かに輝いているのを感じます。自分が光そのものであるような感覚や、暖かい空間に優しく包まれているような感覚に満たされることもあるのです。
このように内なる静寂と深くつながる時間を持つと、その穏やかな波動や雰囲気が他者にも伝わるのか、不思議と物事がスムーズに展開し始めることがあります。
人と「息が合う」ようになるのですね。その呼吸が調和することで、滞っていた流れが再び動き出すのです。瞑想的な生活とは、そのような自然な循環の中に、そっと身を置くことなのかもしれません。
瞑想的な生活を心がけますと、その瞑想状態の充実感が生活にも入ってくる(起こってくる)ので大変に興味深い現象でもあります。
瞑想で荷が降りるとそれは起こる
現在、困っている人もいることでしょう
何かと生活が苦しく、何をしてもうまくいかないなど、困っており、瞑想に救いを求める人もいるかもしれません。
生活苦をヨガや瞑想で打開したい人もいるかもしれません。救いを求める人も多くいらっしゃいます。
何かスーパーパワーを瞑想に求める人もいるかもしれません。(いないと思いますけど)
そういった、ウルトラCを求めてはいけないというのがヨガや瞑想の教えです。
一気に、簡単に、あっという間に現実を変えようと思わないことです。
事実として変わることがあるのですが、それは「変えよう」と思わなくなった時に起こります。
変えようと握りしめている手をゆるめた時に、それが変化が起こります。
一気に変わってほしいという荷物を下ろした時に、生活は一気に変わるのです。
だから、一気に変えようとしないこと。
セミナーや宗教に救いを求めないこと。
救いそのものを手放すこと。
どうやって下ろすことができるかです。
荷物自体が幻想であり、苦しみも自分が作り出していたことに気づくだけで、誰かがあなたを苦しめているのではないのです。
終わりに:日常に静寂を持ち運ぶ
リラックスと瞑想は厳密には異なりますが、深い瞑想へと入っていくためには、心身の深いリラックスが不可欠です。力んだままでは、内なる静寂の扉を開くことは難しいでしょう。
静かに座り、自分自身の内側にある広大な静寂の中へと、ただ寛いでいく。それが瞑想です。ある人はそれを「ソースとつながる」と表現するかもしれません。その根源的なつながりを取り戻すには、思考のさざ波が静まった、静寂の湖畔に佇むことが必要なのです。
ヨガのアーサナ(ポーズ)もまた、身体を通して同じ場所を目指す「動く瞑想」に他なりません。
もしご縁があれば、この縁側で、静かに座る時間を共に過ごしてみませんか。難しいことは何もありません。ただ、静寂の中に遊ぶように、そこに在るだけです。
普段の生活からそのように気をつけるのが良いと思います。
欲望から距離を置き、賑やかな場所からも距離を置きましょう。
そこには苦しみしかありません。
いっときの高揚感はありますが、それはあなたを苦しめる種となります。
そこから離れることがヨガです。
ではまた。



