ラマーヌジャ:限定不二一元論 – 神への帰依 (bhakti)

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幻影の世界から、愛と実在の世界へ

前の章では、偉大なる思想家シャンカラの案内で、不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)という、峻厳にして壮大な哲学的頂きへと至りました。そこから見渡す風景では、究極の実在であるブラフマンだけが唯一真実であり、私たちが経験するこの色彩豊かで変化に富んだ現象世界は、幻(マーヤー)の働きによる束の間の仮象に過ぎないと説かれました。それは、一切の属性を取り去った純粋意識の静寂に満ちた世界であり、私たちの心を揺さぶる喜びや悲しみ、愛や憎しみといった感情も、解脱の過程で乗り越えられるべき対象でした。

その知的で冷徹なまでの論理の頂きから、私たちは今、そっと坂を下り、南インドの温かく湿潤な大地へと降り立ちます。そこには、シャンカラとは全く異なる光景を私たちに見せてくれる、もう一人の偉大な哲学者が待っていました。その名は、ラマーヌジャ(Rāmānuja, 1017?-1137?)。彼の哲学は、私たちの足元にあるこの大地、私たちの目の前にいる他者、そして私たちの内側で燃え上がる神への熱い想いを、決して幻とは呼びません。むしろ、それらすべてが究極的実在の栄光の顕現であり、愛されるべき対象なのだと力強く宣言するのです。

ラマーヌジャの思想は、まるで冬の厳しい寒さの後に訪れる春の陽光のようです。それは、抽象的な真理の探究から、人格を持つ神への熱烈な「信愛(バクティ)」へと、インド哲学の舵を大きく切りました。もしあなたが、この世界に意味を見出したい、誰かを愛し、何かに献身することに価値を感じたいと願うなら、ラマーヌジャの哲学は、あなたの魂に深く響くことでしょう。さあ、彼と共に、この世界が神の愛に満ちた身体として立ち現れる、新たな宇宙観への扉を開けてみましょう。

 

ラマーヌジャという人物:南インドの熱き改革者

ラマーヌジャが生きた11世紀から12世紀にかけての南インドは、多様な文化と信仰が交錯する、活気に満ちた土地でした。当時、シャンカラの不二一元論は、サンスクリット語を操る学識高いバラモン階級を中心に、知的エリート層の間で絶大な影響力を持っていました。しかしその一方で、民衆の間では、タミル語で神への愛を謳い上げたアーリワールと呼ばれる聖者たちの、情熱的な賛歌が深く浸透していました。

ラマーヌジャは、この二つの大きな潮流の交差点に立つ人物です。彼は、一方ではヴェーダやウパニシャッドの権威を重んじる正統派のバラモンとして、サンスクリット語による緻密な哲学的論証を展開しました。しかし同時に、彼の心は、アーリワールたちが歌い上げた、ヴィシュヌ神へのひたむきな愛と献身の世界に深く根差していたのです。彼の哲学体系は、ヴェーダーンタの難解な哲理と、民衆の熱い信仰心とを見事に融合させた、稀有な結晶と言えるでしょう。

さらに特筆すべきは、彼の社会改革者としての一面です。彼は、解脱への道がカーストや性別、学識によって閉ざされるべきではないと考えました。寺院の門戸を不可触民にも開放しようと試み、神への絶対的な帰依さえあれば、誰でも救済されるという教えを広めたと伝えられています。彼のこの姿勢は、哲学が書斎の中の思弁に留まるのではなく、人々の生きた現実を変革する力を持つべきだという、彼の強い信念の表れでした。ラマーヌジャにとって、哲学とは、神と世界、そして人間との「愛の関係」を解き明かし、実践するための道筋そのものだったのです。

 

限定不二一元論(ヴィシシュタ・アドヴァイタ)とは何か

ラマーヌジャの哲学体系は、「限定不二一元論(ヴィシシュタ・アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)」と呼ばれます。この少し難解に響く言葉を、丁寧に解きほぐしてみましょう。

まず「アドヴァイタ」とは「不二一元論」を意味し、これはシャンカラの哲学と同じく、究極的実在は「一」であるとする立場です。しかし、ラマーヌジャの「一」は、シャンカラのそれとは質的に異なります。その違いを示すのが、「ヴィシシュタ」という言葉です。これは「~によって限定された」あるいは「属性を持つ」という意味を持ちます。

つまり、限定不二一元論とは、「多様な属性によって特徴づけられた、唯一なる実在」を認める哲学なのです。

これを理解する鍵は、シャンカラとの対比にあります。シャンカラにとって、最高のブラフマン(ニルグナ・ブラフマン)は、一切の属性を持たない純粋な存在・意識・歓喜そのものでした。名前や形、色、性格といった属性はすべて、現象世界に属する幻であり、究極的には否定されるべきものです。

対してラマーヌジャは、最高のブラフマンは、無限の吉祥なる属性を持つ「有属性(サグナ)ブラフマン」であると主張しました。彼にとって、神とは冷たい抽象的な原理ではありません。それは、全知、全能、全き愛、無限の慈悲、この上ない美しさといった、数え切れないほどの素晴らしい属性を完全に備えた、人格的な最高神(ヴィシュヌ神、あるいはナーラーヤナ)なのです。

では、その唯一なる神と、私たちが経験するこの多様な世界(個々の魂や物質)は、どのような関係にあるのでしょうか。ここに、ラマーヌジャの独創的な思想が光ります。彼は、世界を幻(マーヤー)として退けるのではなく、個々の魂(チット)と物質世界(アチット)は、共にブラフマンの「身体(シャリーラ)」であると説きました。

  • チット(Cit): 意識を持つもの。私たち個々の魂(アートマン)を指します。一つひとつが区別され、実在します。

  • アチット(Acit): 意識を持たないもの。私たちが五感で捉える物質的な自然界全体を指します。

  • ブラフマン(Brahman): 究極的な実在であり、チットとアチットという身体を内側から支配する「魂(シャリーリン)」です。

この「身体-魂」の比喩は、極めて重要です。私たちの身体が、私たちの魂(精神)の意志に従って動くように、この宇宙全体(チットとアチット)は、ブラフマンという大いなる魂の意志によって支えられ、動かされています。身体は魂なしには存在できず、魂に従属しています。しかし、身体は決して「幻」ではありません。それは魂が活動するための、紛れもない実在です。

同様に、私たちやこの世界は、神に従属し、神に完全に依存する存在ではありますが、幻ではありません。私たちは神の身体の一部として、確かに実在しているのです。そして、この世界は神の栄光と美を表現するための舞台となります。縁側が、家という内部空間と、庭という外部空間をつなぐ「間」の領域であるように、私たちという存在は、神という内なる魂と、宇宙という広大な身体をつなぐ、聖なる場所なのかもしれません。この世界は、神の創造的な遊び(リーラー)の場であり、その一つ一つの現象に神の意志と愛が宿っている。これが、ラマーヌジャが私たちに示してくれる世界観なのです。シャンカラが世界の多様性を「見かけ」として乗り越えようとしたのに対し、ラマーヌジャはその多様性の中にこそ神の豊かさを見出し、それを丸ごと肯定したのです。

 

解脱への道:信愛(バクティ)と絶対的帰依(プラパッティ)

この世界が神の愛に満ちた身体であるならば、私たちの目指すべき解脱とは、どのようなものでしょうか。ラマーヌジャによれば、それは「神の御許に赴き、永遠に神への奉仕の喜びに浸ること」です。そして、その境地に至るための最も優れた道が、**バクティ・ヨーガ(信愛のヨーガ)**であると彼は説きます。

『バガヴァッド・ギーター』などでも説かれていたバクティ(信愛)の道を、ラマーヌジャは極めて洗練された哲学体系へと昇華させました。彼にとってのバクティとは、単なる情緒的な信仰や、時折の祈りではありません。それは、**「絶え間なく流れ続ける油のように、途切れることのない神への愛に満ちた想念」**であり、瞑想(ディヤーナ)の一種として捉えられます。神の無限の慈悲や美しさ、偉大さといった属性を心に描き、その記憶を絶やすことなく保ち続ける。その愛の集中が深まることで、ついには神を直接観想する(見る)段階へと至り、死後、肉体から解放された魂は、神の楽園(ヴァイクンタ)へと到達するのです。

このバクティ・ヨーガを実践するためには、前提条件があります。それは、知識(ジニャーナ)と行為(カルマ)のヨーガです。ヴェーダ聖典を学び、世界の成り立ちと神の本質についての正しい知識を得ること。そして、ヴェーダに定められた儀式や社会的な義務(ダルマ)を、結果への執着なく遂行すること。これらの実践によって心は浄化され、神への愛を育むための土壌が整えられるのです。知識と行為は、バクティという大輪の花を咲かせるための、根や茎の役割を果たすと言えるでしょう。

しかし、ここに一つの壁が立ちはだかります。このような高度なバクティ・ヨーガは、ヴェーダを学ぶことができ、複雑な儀式を執り行うことができる、上位カーストの男性にしか実践が難しいのではないか、という問題です。

ここで、ラマーヌジャの思想の、最も慈悲深く、画期的な側面が姿を現します。それが、プラパッティ(Prapatti)、すなわち**「絶対的帰依」**の道です。

プラパッティとは、バクティ・ヨーガのような厳しい修行ができない人々のために開かれた、もう一つの、そしてより直接的な救済の道です。それは、自らの無力さ、罪深さを徹頭徹尾認め、「私自身の力では、あなた(神)に到達することは到底できません。どうか、私を憐れみ、あなたの御力でお救いください」と、完全に神に身を委ね、その救済をひたすら願うことです。

このプラパッティの精神は、しばしば「猫の子の比喩」で説明されます。母猫は、自分の口で子猫の首をそっと咥え、安全な場所へと運びます。子猫はただ、完全に力を抜き、母猫に身を任せているだけです。何もせずとも、母猫の愛によって救われる。これがプラパッティです。対照的に、従来のヨーガの道は「猿の子の比喩」で語られます。子猿は、自らの力で必死に母猿の体にしっかりとしがみつかなければ、運んでもらうことはできません。そこには自己の努力が不可欠です。

プラパッティは、ヨーガを実践する能力や学識、カースト、性別といった、人間的な条件を一切問いません。ただ、神の無限の慈悲を信じ、全面的に自己を放棄する「心」さえあればよい。この教えは、インド社会のあらゆる階層の人々に、解脱への希望の光をもたらしました。それは、哲学がエリートの占有物から、万人のための救済の福音へと変わった瞬間でもありました。

 

ラマーヌジャが後世に与えた影響と現代的意義

ラマーヌジャの思想は、その後のインド、特に南インドの宗教と思想に絶大な影響を与えました。彼の教えは、ヴィシュヌ神へのバクティを中核とするヒンドゥー教の一大潮流を形成し、数多くの聖者や詩人、思想家たちにインスピレーションを与え続けました。彼が哲学的に体系化したバクティの思想は、民衆の心に深く根付き、今日に至るまで何億もの人々の信仰生活を支えています。

ラマーヌジャ哲学が持つ現代的な意義は、計り知れません。

第一に、それは世界の「肯定」の哲学です。私たちが生きるこの身体、この自然、この社会は、克服すべき幻影ではなく、神の栄光が宿る聖なる場であるというメッセージは、私たちの日常的な営みや経験に、深い意味と価値を与えてくれます。道端に咲く一輪の花に、見知らぬ人の親切な微笑みに、神の美と慈悲の現れを見出すことができる。それは、世界との和解であり、生そのものへの祝福です。

第二に、それは**「愛」と「関係性」の哲学**です。西洋近代哲学が「我思う、ゆえに我あり」という個人の理性を出発点としたのに対し、ラマーヌジャは「我、神を愛す。ゆえに我あり」とでも言うべき、関係性の中に自己を見出します。自己の存在は、神という絶対他者との愛の交わりの中で初めて意味を持ち、完成されるのです。個人主義と孤独感が広がる現代社会において、この思想は、他者や超越的な存在との深い結びつきの中にこそ、真の自己と幸福があることを教えてくれます。

そして最後に、プラパッティの教えは、**「手放すことの力」**を私たちに示唆します。自分の力ですべてをコントロールしようとすることが、かえって私たちを苦しめているのかもしれません。自分の限界を認め、人事を尽くした後は、自分を超えた大いなる存在の流れに身を委ねてみる。その謙虚さと信頼の中に、予期せぬ救いや、心の平安が見出されることがあります。それは、現代人が忘れがちな「委ねる」という知恵を、私たちに思い出させてくれるのです。

 

結び:縁側から眺める愛に満ちた宇宙

ラマーヌジャの哲学の旅は、私たちを再び、自分たちの生活の場へと連れ戻してくれます。しかし、その風景はもはや以前と同じではありません。彼の思想という眼鏡を通して世界を見渡すとき、ありふれた日常の風景が、神の愛と美に満ちた、奇跡的な輝きを帯びて見えてくるのではないでしょうか。

私たちの心臓の鼓動も、窓から差し込む光も、食卓を囲む家族の笑顔も、すべてが唯一なる神の広大な身体の一部であり、その壮大な交響曲に加わる一つの音色なのです。ラマーヌジャは、冷たく孤独な宇宙に、人格的な神の温かい眼差しと、決して見捨てられることのないという絶対的な安心感を与えてくれました。

この講義を終えた後、あなたがふと自宅の縁側や窓辺に立ち、外の世界を眺める時、そこに広がる光景の中に、ラマーヌジャが語った神の「リーラー(聖なる遊び)」のかけらを感じ取ることができたなら、この哲学の旅は大きな意味を持つことでしょう。インド哲学の探求は、知識の獲得に留まらず、私たちの世界の見方、そして生き方そのものを変容させる、深遠な実践なのです。

 

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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。