アルジュナの苦悩 – 義務と非暴力の狭間で – 普遍的な人間の葛藤

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クルクシェートラの聖なる野に、両軍の戦鼓が轟き渡り、大地は馬蹄の響きと戦士たちの雄叫びに震えています。パーンダヴァ軍の勇将アルジュナは、彼の年来の友であり、師であり、そして今や彼の御者として傍らに立つクリシュナに促され、両軍の中央へと戦車を進めます。荘厳なる弓ガーンディーヴァを手に、彼はこれから相争うことになる敵軍の顔ぶれを見定めるため、静かに、しかし鋭い眼差しを向けました。

しかし、その視線の先に映し出された光景は、アルジュナの心臓を射抜く矢のように、彼の勇気を、戦意を、そして生きる気力さえも打ち砕くものでした。そこに立っていたのは、憎むべき敵ではなく、彼が敬愛し、教えを受け、共に育ち、血を分けた親族、師、友人たちの姿だったのです。

敬愛する祖父ビーシュマ、かつて弓術の手ほどきを受けた師ドローナ、そして数多の叔父、兄弟、甥、友人たち…。彼らは皆、アルジュナにとってかけがえのない存在でした。彼らの顔、彼らの眼差しが、アルジュナの心に過去の温かい記憶を呼び覚ますと同時に、これから彼らを殺めなければならないという冷酷な現実を突きつけます。

この瞬間、英雄アルジュナの心は、激しい嵐に見舞われた小舟のように揺れ動き始めます。彼がこれまで信じてきた価値観、守るべきと教えられてきたダルマ(義務・法)、そして彼自身の人間としての情愛が、解決不能な矛盾の中で衝突し、彼を深い苦悩の淵へと突き落とすのです。このアルジュナの苦悩こそが、『バガヴァッド・ギーター』という深遠な対話が始まる引き金となり、私たち人間が普遍的に抱える葛藤の本質を鮮やかに描き出しています。

 

親族殺しの罪悪感と深い悲嘆(カールニャ・ドーシャ)

アルジュナが最初に打ちのめされたのは、自らの手で愛する者たちを殺めなければならないという、耐え難い悲嘆と罪悪感でした。彼はクリシュナに向かって、震える声でこう訴えます。

「おお、クリシュナよ!戦場に集い、戦うことを欲しているこれらの親族たちを見て、私の手足は萎え、口は渇き、身体は震え、毛は逆立つ。弓ガーンディーヴァは手から滑り落ち、皮膚は燃えるように熱い。私はもはや立つことさえできず、心は混乱しているかのようだ。」(BG 1.28-30)

この言葉は、単なる弱音ではありません。それは、人間が持つ根源的な共感能力、他者の苦しみを我がことのように感じる慈悲の心(カルーナ)から発せられた魂の叫びです。アルジュナにとって、これから始まる戦いは、正義のための戦いという大義名分以上に、愛する人々を殺戮するという、おぞましい行為に他なりませんでした。

彼は続けます。「おお、ケーシャヴァ(クリシュナ)よ!私は勝利も、王国も、そして快楽も望まない。ゴヴィンダ(クリシュナ)よ、私たちにとって王国に何の価値があろうか。快楽に、あるいは生命そのものにさえ、何の価値があろうか。私たちが王国や快楽や喜びを願うその相手が、まさに今、財産と生命を賭して戦場に立っているのだから。」(BG 1.31-33)

ここでアルジュナが直面しているのは、目的と手段の倒錯です。王国や富、快楽といったものは、本来、人々と分かち合い、共に享受するために求めるものです。しかし、その人々を殺してまで手に入れた王国に、一体どのような価値があるというのでしょうか。それは、愛する者を失った砂漠に築かれた楼閣のようなものであり、虚しさと後悔しか生まないのではないでしょうか。

アルジュナのこの苦悩は、彼が冷酷な戦士ではなく、深い愛情と人間性を持った人物であることを示しています。彼の心は、これから犯そうとしている行為の重大さを前にして、当然の反応として打ちのめされているのです。これは、ある意味で、彼の感受性の豊かさ、倫理観の高さの現れとも言えるでしょう。ただ機械的に命令に従うのではなく、自らの行為の意味と結果を深く洞察し、その重みに苦しむ。ここに、アルジュナの人間としての誠実さが見て取れます。

 

ダルマ(義務)とアヒンサー(非暴力)の狭間で揺れる心

アルジュナは、クシャトリヤ(武人・王族階級)として生まれました。当時のインド社会において、クシャトリヤのダルマ(スヴァダルマ、自己の義務・本性)は、不正と戦い、民衆を守り、正義を打ち立てることでした。このクルクシェートラの戦いは、パーンダヴァ兄弟から不当に王国を奪い、彼らを長年苦しめてきたカウラヴァ兄弟の不正を正すための、いわば「正義の戦い」とされていました。したがって、アルジュナにとって戦うことは、彼の階級に課せられた神聖な義務を果たすことを意味していました。

しかし、その義務を果たすためには、アヒンサー(非暴力)という、もう一つの重要な倫理的価値観を破らなければなりません。アヒンサーは、ヴェーダの教えにも見られ、後のジャイナ教や仏教で特に重視されることになる、あらゆる生命を傷つけないという徳目です。アルジュナの心は、この二つの「正しさ」の間で激しく引き裂かれます。

彼はこう嘆きます。「ああ、悲しいかな!私たちは、王国と快楽の欲望に駆られて、自らの親族を殺そうという大きな罪を犯そうとしている。もし武器を持たず、抵抗しない私を、武器を持ったドゥリタラーシュトラの息子たち(カウラヴァ)が戦場で殺すとしても、それは私にとってはより良いことだろう。」(BG 1.45-46)

戦うべきか、戦わざるべきか。義務を果たすために親族を殺すという「罪」を犯すべきか、それとも非暴力を貫き、クシャトリヤとしての「義務放棄」という罪を犯すべきか。どちらを選んでも、何らかの形で「悪」に関わってしまうのではないかという絶望的な状況。これは、まさに倫理的ジレンマの極致と言えるでしょう。

私たち現代人も、程度の差こそあれ、このようなジレンマに直面することがあります。会社の方針と個人の良心、家族の期待と自身の夢、社会の要請と個人の信念。どちらか一方を選べば、もう一方を裏切ることになるかもしれない。そのような時、私たちはアルジュナと同じように、深い苦悩と無力感に苛まれるのではないでしょうか。アルジュナのこの葛藤は、特定の時代や文化に限定されるものではなく、人間が社会の中で生きる上で避けられない、普遍的な問いを私たちに投げかけているのです。

 

社会的混乱への懸念と未来への絶望(クラ・クシャヤ・クリタム・ドーシャム)

アルジュナの苦悩は、個人的な悲嘆や倫理的ジレンマに留まりません。彼は、この戦いがもたらすであろう社会全体の崩壊と、その結果として生じるであろう未来への絶望をも深く憂慮していました。

「一族が滅びれば、永遠に続く家系の伝統(クラ・ダルマ)は失われる。伝統が失われれば、無法(アダルマ)が一族全体を覆うであろう。おお、クリシュナよ!無法が蔓延すれば、一族の女性たちは堕落する。ヴァールシュネーヤ(クリシュナ)よ、女性たちが堕落すれば、望ましくない混血(ヴァルナ・サンカラ)が生じる。」(BG 1.39-41)

当時のインド社会は、ヴァルナ制度(四つの階級制度)と、それぞれのヴァルナに定められたダルマによって秩序が保たれていました。また、家系の伝統や祖先祭祀は、社会の安定と継続性にとって非常に重要な役割を担っていました。アルジュナは、この戦いによって指導者層であるクシャトリヤの多くが死に絶え、社会の根幹を成すこれらの制度や伝統が崩壊してしまうことを恐れたのです。

特に、女性の堕落と混血の発生は、社会秩序の混乱を象徴する出来事として捉えられていました。それは、単に血の純粋性が失われるという問題だけでなく、それによって家系の伝統が途絶え、祖先への供養が行われなくなり、結果として一族全体が破滅するという、より深刻な事態を招くと考えられていたのです。

「混血は、一族を滅ぼした者たちと一族そのものを地獄へ導く。なぜなら、彼らの祖先たちは、供物(ピンダ)と水の供養(ウダーカ)を受けられなくなり、堕落するからである。」(BG 1.42)

アルジュナのこの懸念は、彼が単に自己の感情に流されているのではなく、社会全体の福祉と未来を深く洞察していることを示しています。彼は、戦いがもたらす直接的な死だけでなく、その後に続くであろう長期的な社会的・文化的荒廃をも見据えているのです。これは、為政者としての責任感、あるいは社会の一員としての倫理観の高さを示すものと言えるでしょう。

目の前の敵を倒すことだけを考えるのではなく、その行為がどのような連鎖反応を引き起こし、未来にどのような影響を与えるのかを深く憂慮する。この視点は、現代社会において私たちが直面する様々な問題(環境破壊、経済格差、国際紛争など)を考える上でも、非常に重要な示唆を与えてくれます。短期的な利益や勝利に目を奪われることなく、長期的な視点と全体的な調和を考慮することの重要性を、アルジュナの苦悩は静かに語りかけているかのようです。

 

戦意喪失と自己放棄 – 絶望の淵にて

これらの苦悩がアルジュナの心を覆い尽くした結果、彼は完全に戦意を喪失し、深い絶望感に打ちひしがれます。かつて数々の戦いで武勇を示し、ガーンディーヴァ弓を自在に操った英雄の面影はそこにはありませんでした。

「おお、マドゥスーダナ(クリシュナ)よ!私は立派な師であるビーシュマやドローナに対して、戦場でどのように矢を放つことができようか。彼らは崇拝に値する方々なのだから。偉大な魂を持つ師たちを殺すよりは、この世で施しを受けて生きる方がましだ。たとえ彼らを殺して富や快楽を享受したとしても、それらは血に染まったものであろう。」(BG 2.4-5)

アルジュナは、戦うことの無意味さ、そして戦った結果として得られるものの虚しさを痛感し、もはや戦場に立つことさえできない状態に陥ります。彼は弓と矢を戦車の中に投げ捨て、悲しみに打ちひしがれて座り込んでしまいました(BG 1.47)。

このアルジュナの姿は、人生の大きな岐路に立ち、進むべき道を見失い、無力感と絶望感に苛まれる人間の姿そのものです。彼が抱える問題は、あまりにも巨大で複雑であり、彼自身の力だけでは到底解決できないように思われました。彼の理性も、感情も、そしてこれまで培ってきた価値観も、この絶対的な矛盾の前には無力だったのです。

しかし、この絶望の淵こそが、新たな始まりの場所となります。自己の限界を痛感し、自らの知恵ではこの苦境を乗り越えられないと悟った時、人は初めて真の師を求め、教えを受け入れる準備ができるのかもしれません。

アルジュナは、涙ながらにクリシュナにこう訴えます。

「私の心は悲嘆によって打ちのめされ、何が正しい義務(ダルマ)であるのか分からず、混乱しています。あなたにお尋ねします。私にとって確実により善いことを教えてください。私はあなたの弟子です。あなたに帰依した私をどうかお導きください。」(BG 2.7)

この「私はあなたの弟子です。あなたに帰依した私をどうかお導きください」という言葉は、『バガヴァッド・ギーター』において極めて重要な転換点となります。これまでの友人としてのクリシュナではなく、師としてのクリシュナに、アルジュナは全託の姿勢で教えを乞うのです。自らの無知と無力さを認め、真理を求める謙虚な心。この心境に至って初めて、クリシュナの深遠な教えがアルジュナの(そして私たちの)心に届く道が開かれるのです。

 

普遍的な人間の葛藤としてのアルジュナの苦悩

アルジュナの苦悩は、古代インドの戦場という特殊な状況下で起こった出来事でありながら、その本質においては、時代や文化を超えて、私たち人間が普遍的に抱える葛藤を見事に映し出しています。

私たちは皆、人生において大小様々な選択を迫られます。その選択が、自身の価値観や信念、人間関係、社会的な責任など、複数の要素と複雑に絡み合い、どちらを選んでも何らかの犠牲や痛みを伴う場合があります。愛する人との関係、仕事上の倫理、社会正義の実現、個人の幸福の追求…。これらの間で揺れ動き、何が本当に正しい道なのか、何をなすべきなのかを見失い、アルジュナのように深い苦悩に沈むことがあるのではないでしょうか。

アルジュナが感じた、親族への愛情と戦士としての義務との間の葛藤。それは、現代社会に生きる私たちが、家族や友人への情愛と、仕事や社会における責任との間でバランスを取ろうとする際の苦悩と重なります。

また、彼が抱いた、戦いによる社会的混乱への懸念。それは、私たちの行動が周囲や社会全体にどのような影響を与えるのかを考え、より良い未来のために何をすべきかを模索する際の倫理的な問いかけと通じます。

そして、勝利の後の虚無感や、ダルマとアヒンサーのジレンマ。それは、私たちが目的を達成するために手段を選ばず突き進むことの危険性や、絶対的な正義が存在しない世界で、いかにしてより善い選択をしていくかという、人間存在の根源的な問いへと繋がっていきます。

アルジュナの苦悩は、単なる物語の登場人物の感情としてではなく、私たち自身の内面に潜む可能性としての葛藤として捉えることができます。彼の絶望と混乱に共感し、彼の問いを自らの問いとして受け止めることによって、私たちは初めて、『バガヴァッド・ギーター』が示す「生きていく上での智慧」の真価を理解し始めることができるのです。

この深い苦悩と混乱のただ中にいるアルジュナに対し、これまで静かに彼の言葉に耳を傾けていたクリシュナは、いよいよその深遠なる教えを説き始めます。それは、絶望の淵からアルジュナを(そして私たちを)引き上げ、真の自己と世界のあり方を悟らせ、迷いなくダルマを遂行するための智慧の光となるのです。アルジュナの苦悩は、その光を受け入れるための、いわば心の器を準備するプロセスだったのかもしれません。

次の章では、このアルジュナの絶望的な問いかけに対し、クリシュナがどのように応え、どのような真理を明かしていくのか、その壮大な師弟対話の始まりを見ていくことにしましょう。アルジュナの苦悩が深ければ深いほど、クリシュナの言葉は、より一層鮮やかに、そして力強く響き渡るのです。

 

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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。