バガヴァッド・ギーター。その名は、ヨーガを志す者のみならず、人生の岐路に立ち、深い問いを抱える多くの人々の心に、時代を超えて響き続けています。この聖なる歌は、古代インドの大叙事詩「マハーバーラタ」の一部に収められ、絶望の淵に立つ戦士アルジュナと、彼の御者であり、友であり、そして神の化身であるクリシュナとの対話として、深遠なる宇宙の真理と、人間が生きるべき道を照らし出します。
物語の幕開けは、まさに息をのむような情景から始まります。それは「戦慄の戦場」、クルクシェートラ。単なる領土争いの場ではなく、ダルマ(正義・法・義務)とアダルマ(不正・不法)が激突する、宇宙的な規模での一大決戦の舞台です。この戦場は、私たちの心の内にも存在する葛藤や迷いの象徴であり、ギーターが語りかけるメッセージは、遠い過去の物語としてではなく、今を生きる私たち自身の物語として、深く胸に迫ってくるのです。
もくじ.
クルクシェートラ:聖なる野、あるいは心の鏡
ギーターの冒頭、盲目の王ドリタラーシュトラが、彼の忠実な臣下であり、遠隔視の能力を持つサンジャヤに問いかける場面から物語は始まります。「サンジャヤよ、ダルマの野、クルクシェートラの野に集いし、戦意に燃えるわが息子たち、そしてパーンドゥの息子たちは、何をなしたのか?」
ここで注目すべきは、「ダルマクシェートラ(ダルマの野)」という言葉です。クルクシェートラは、単に血なまぐさい戦いの場であるだけでなく、古来より聖地とされてきた場所でした。かつて、多くの賢者たちがここで苦行を行い、神々が祭祀を執り行ったと伝えられています。その神聖な土地が、今まさに同族間の骨肉の争いの舞台となろうとしているのです。この皮肉とも言える状況設定自体が、ギーターが投げかける問いの深さを暗示しています。
クルクシェートラは、地理的には現在のインド北部に位置する平原ですが、ギーターを読む私たちにとっては、それ以上の意味を持ちます。それは、私たち自身の心の中にある「戦場」を映し出す鏡のような場所です。日々の生活の中で、私たちは様々な選択を迫られ、義務と欲求、正義と私利私欲の間で揺れ動きます。その内なる葛藤こそが、クルクシェートラの戦場に他ならないのです。この聖なる野は、私たちが自身のダルマを見つめ直し、真の自己と向き合うための試練の場として、私たちの前に立ち現れます。
物語の背景:パーンダヴァとカウラヴァ、避けられぬ宿命の対決
バガヴァッド・ギーターが収められている「マハーバーラタ」は、世界最長の叙事詩の一つであり、王国の継承権を巡るパーンダヴァ五兄弟と、その従兄弟にあたるカウラヴァ百兄弟との壮絶な争いを描いています。その物語は、愛憎、嫉妬、裏切り、忠誠、そしてダルマの探求といった、人間のあらゆる感情と行動の様相を網羅しています。
パーンダヴァ五兄弟は、長兄ユディシュティラ、大力のビーマ、弓の名手アルジュナ、そして双子のナクラとサハデーヴァからなります。彼らは故パーンドゥ王の息子たちであり、正義感と高潔な精神を体現する存在として描かれます。特にユディシュティラは「ダルマの子」とも呼ばれ、その誠実さで知られていました。アルジュナは、ギーターの主人公であり、優れた戦士であると同時に、深い思慮と感受性を持つ人物です。
一方、カウラヴァ百兄弟は、盲目の王ドリタラーシュトラの息子たちであり、その長男であるドゥルヨーダナが中心人物です。ドゥルヨーダナは、強欲で嫉妬深く、パーンダヴァ兄弟の才能と人気を妬み、彼らから王国を奪おうと様々な策略を巡らせます。彼の心は、アダルマの闇に深く染まっています。
物語の発端は、サイコロ賭博という卑劣な策略でした。ドゥルヨーダナは、叔父であるシャクニの悪知恵を借り、ユディシュティラを賭博に誘い込みます。ユディシュティラは、ダルマに縛られるあまり、その誘いを断ることができず、次々と財産、王国、兄弟、そして妻であるドラウパディーまでも失ってしまいます。ドラウパディーが公衆の面前で衣を剥がれるという屈辱的な事件は、パーンダヴァとカウラヴァの間に決定的な亀裂を生み出しました。
この後、パーンダヴァ兄弟は12年間の森での追放と、1年間の潜伏生活を強いられます。約束の期間が満了し、彼らが王国の返還を求めても、ドゥルヨーダナは針一本分の土地さえも与えようとはしませんでした。クリシュナをはじめとする賢者たちが和平交渉を試みますが、ドゥルヨーダナの頑なな態度は変わらず、ついに戦争は避けられない状況となったのです。
こうして、親族同士が、かつては共に学び、遊び、生活を共にした者たちが、クルクシェートラの戦場に集結し、互いに武器を向けるという悲劇的な状況が生まれます。それは、単なる権力闘争を超え、ダルマの回復と、宇宙の秩序を取り戻すための聖なる戦い(ダルマ・ユッダ)としての意味合いを帯びていました。
両軍の主要な登場人物たち:それぞれの正義と悲哀
クルクシェートラの戦場には、当代きっての勇者たちが、それぞれの信念とダルマを胸に集結していました。彼らの存在が、この物語に深みと複雑さをもたらしています。
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パーンダヴァ軍の勇者たち
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アルジュナ(Arjuna):ギーターの主人公。インドラ神の子とされ、弓術において比類なき才能を持つ戦士です。彼は正義感にあふれ、家族や師を深く敬愛する心優しい人物でもあります。しかし、戦場で敵陣に敬愛する祖父ビーシュマや師ドローナの姿を見たとき、彼の心は激しく揺れ動き、戦意を喪失してしまいます。このアルジュナの苦悩と絶望が、クリシュナによるギーターの教えを引き出すきっかけとなるのです。彼の葛藤は、私たち自身の心の弱さや迷いを映し出していると言えるでしょう。
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クリシュナ(Krishna):アルジュナの親友であり、彼の戦車の御者を務めます。彼は単なる御者ではなく、ヴィシュヌ神の化身(アヴァターラ)であり、宇宙の真理を体現する存在です。アルジュナの苦悩に対し、冷静かつ慈愛に満ちた言葉で、魂の不滅性、カルマヨーガ(行為のヨーガ)、バクティヨーガ(信愛のヨーガ)、ギャーナヨーガ(知識のヨーガ)といった深遠な教えを説き、彼を正しい道へと導きます。クリシュナの言葉は、アルジュナだけでなく、ギーターを読む全ての読者にとって、暗闇を照らす灯明となるのです。
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ユディシュティラ(Yudhishthira):パーンダヴァ五兄弟の長兄。ダルマの神ヤマの子とされ、その名の通り「戦いにおいて不動の者」という意味を持ちますが、彼の真骨頂は武勇よりもその揺るぎない正義感と誠実さ、そして慈悲深さにあります。しかし、時にその実直さが仇となり、サイコロ賭博の悲劇を招いたこともありました。彼は、常にダルマとは何かを問い続け、苦悩しながらも正しい道を踏み外さないよう努めます。
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ビーマ(Bhima):風の神ヴァーユの子とされ、怪力無双の戦士です。直情的で情熱的な性格の持ち主であり、カウラヴァへの怒りは誰よりも激しいものがありました。ドラウパディーが受けた屈辱に対して、ドゥフシャーサナの血を飲む、ドゥルヨーダナの腿を砕くといった恐ろしい誓いを立て、それを実行します。彼の存在は、正義の怒りの激しさを象徴しています。
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カウラヴァ軍の勇者たち
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ドゥルヨーダナ(Duryodhana):カウラヴァ百兄弟の長男であり、カウラヴァ軍の総大将。その名は「戦い難き者」を意味します。彼はカリ(闘争と悪徳の時代を司る神)の化身とも言われ、強大な力と傲慢さ、そしてパーンダヴァへの底知れぬ嫉妬心に満ちています。彼の頑迷さが、この大戦争を引き起こした元凶と言えるでしょう。しかし、彼なりに王としての誇りや仲間への情を持っていた側面も描かれ、単純な悪役としてだけでは捉えきれない複雑な人物像を持っています。
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ビーシュマ(Bhishma):パーンダヴァ、カウラヴァ両家共通の大叔父であり、ガンガー河の女神とシャーンタヌ王の子。彼は「恐るべき者」という意味の名を持ち、当代最高の戦士の一人であり、不敗の誓いを立てていました。彼はダルマを深く理解し、パーンダヴァの正当性を認めながらも、かつて父王に立てた「ハスティナープラの玉座を守る」という誓いに縛られ、不本意ながらカウラヴァ軍の総司令官として戦場に立ちます。彼の悲劇的な立場は、ダルマの複雑さと、個人の誓いや義務が時にどれほど過酷なものとなり得るかを示しています。
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ドローナ(Drona):パーンダヴァ、カウラヴァ両兄弟共通の武術の師範。バラモン階級の出身でありながら、卓越した武術の知識と技術を持ち、多くの優れた戦士を育て上げました。特にアルジュナは彼の一番弟子であり、深い師弟愛で結ばれていました。しかし、ドリタラーシュトラ王への恩義から、ビーシュマ同様、心ならずもカウラヴァ軍として戦うことになります。教え子たちと戦わなければならない彼の苦悩は計り知れません。
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カルナ(Karna):太陽神スーリヤと、パーンダヴァの母クンティーの間に、クンティーが結婚前に産んだ子。そのため、パーンダヴァ兄弟とは異父兄弟にあたりますが、その事実は戦争の終盤まで伏せられていました。生まれながらにして黄金の鎧と耳輪を身に着けていたと言われる偉大な戦士であり、アルジュナの最大のライバルとして立ちはだかります。彼は出自の故に不当な扱いを受け続け、その中でドゥルヨーダナに友情を見出し、彼への忠誠を誓います。彼の生き様は、運命の不条理と、友情、そしてダルマのあり方について深く問いかけます。悲劇の英雄として、多くの読者の心を捉えて離さない存在です。
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これら主要な登場人物以外にも、盲目の王ドリタラーシュトラ(Dhritarashtra)、彼の妻ガーンダーリー(Gandhari)、パーンダヴァの母クンティー(Kunti)、パーンダヴァ共通の妻ドラウパディー(Draupadi)、そしてこの戦いの様子をドリタラーシュトラに語り伝えるサンジャヤ(Sanjaya)など、多くの魅力的な人物たちがこの壮大な物語を彩っています。彼ら一人ひとりが、それぞれのカルマ(行為とその結果)とダルマを背負い、この避けられない戦いに臨んでいるのです。
戦列を前にして:壮大な悲劇の予感と、魂の問いかけの始まり
クルクシェートラの広大な平原に、両軍は整然と陣形を組み、対峙します。法螺貝の音が鳴り響き、太鼓や戦鼓が打ち鳴らされ、馬のいななきや象の咆哮が大地を揺るがします。戦士たちの雄叫びと武器のきらめきが、これから始まる壮絶な戦いを予感させます。
この緊迫した状況の中、アルジュナはクリシュナに言います。「アチュタ(不滅なる者よ、クリシュナの別名)、私の戦車を両軍の間に進めてください。戦おうと集まっている者たち、この戦いで私が誰と戦わねばならないのかを、よく見ておきたいのです。」
クリシュナはアルジュナの言葉に従い、戦車を両軍の中央へと進めます。そこでアルジュナが見たものは、敵陣に並ぶ父祖たち、師たち、叔父たち、兄弟たち、息子たち、孫たち、そして友人たちでした。敬愛するビーシュマ、恩師ドローナ、そして多くの親族や仲間たちが、今まさに自分が殺そうとしている相手として目の前に立っているのです。
この光景を目の当たりにしたアルジュナの心は、激しい衝撃と悲しみに襲われます。彼の身体は震え、口は渇き、手から愛弓ガーンディーヴァが滑り落ちそうになります。戦意は完全に打ち砕かれ、彼は深い絶望感とともにその場に座り込んでしまいます。
「クリシュナよ、戦場に集まったこれらの親族を見て、私の手足は萎え、口は乾き、身体は震え、毛髪は逆立つのです。…ああ、悲しいことに、私たちは王国と享楽の欲望のために、親族を殺すという大きな罪を犯そうとしています。」
このアルジュナの悲痛な叫び、深い苦悩と戦意喪失こそが、バガヴァッド・ギーターの深遠な対話が始まるまさにその瞬間です。彼は、戦士としての義務(クシャトリヤ・ダルマ)と、親族や師を殺すことへの道徳的な呵責との間で、引き裂かれそうになっています。何が正しく、何が間違っているのか。何をすべきで、何をすべきでないのか。彼の魂は、根源的な問いの前に立ち尽くしているのです。
この絶望の淵に立つアルジュナに対し、クリシュナは、静かに、しかし力強く、宇宙の真理と、人間がとるべき行動の道を説き始めます。ここから、バガヴァッド・ギーターの深遠な教えが、一章、また一章と展開されていくのです。
読者への問いかけ:戦場はどこにあるのか
クルクシェートラの戦場は、遠い昔のインドの平原で起きた、壮大な物語の一場面に過ぎないのでしょうか。そうではありません。この戦場は、時代を超え、文化を超えて、私たち一人ひとりの心の中に存在しています。
私たちは日々、様々な選択と決断を迫られます。仕事、家庭、人間関係の中で、自分の欲求と他者の期待、個人的な感情と社会的な義務、目先の利益と長期的な理想の間で、葛藤し、悩み、苦しみます。それはまさに、アルジュナがクルクシェートラの戦場で直面した苦悩と同じ質のものです。
どちらの道を選ぶべきか。何が本当の正義なのか。この困難な状況で、自分は何をなすべきなのか。これらの問いは、ギーターを読む私たち自身の魂からの問いかけでもあります。
バガヴァッド・ギーターは、この戦慄の戦場を舞台として、私たちに語りかけます。それは、単なる戦いの物語ではなく、自己の内面を見つめ、真の自己(アートマン)に目覚め、執着を手放し、ダルマに従って生きるための智慧の書なのです。
この壮大な物語の幕開けは、私たち自身の内なる旅の始まりでもあります。アルジュナと共に、クリシュナの言葉に耳を傾け、心の戦場を乗り越え、真の平和と解放へと至る道を、これから共に探求していきましょう。クルクシェートラの戦場から聞こえてくる法螺貝の音は、私たち自身の魂を目覚めさせるための呼び声なのかもしれません。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。





