ヨガを推奨しております。
かれこれ長いこと(?)ヨガを続けていますが、正直に申し上げますと、「よくわからない」から続けています。
「え、プロなのに?」と思われるかもしれません。
でも、逆なのです。
わかってしまったら、もう続ける必要がないのかもしれません。
わからないからこそ、その深淵に惹かれ、今日もまたマットの上に立つのです。
今日は、この「よくわからない」ということの豊かさについて、そして現代社会が失いつつある「神秘(ミステリー)」への畏敬について、少し静かにお話ししてみたいと思います。
「わかる」ことへの強迫観念
現代社会は、「わかる」ことに凄まじい価値を置いています。
「わかりやすい説明」が賞賛され、「即効性のあるメソッド」が売れ、「科学的根拠(エビデンス)」がないものは排除されます。
スマホで検索すれば、数秒で答えらしきものが手に入る。
私たちは、世界のすべてを「既知」の領域に押し込め、コントロール可能なものとして扱おうとしています。
ヨガの世界でさえそうです。
「このポーズはここに効く」「脳科学的に証明された瞑想効果」「3ヶ月でインストラクター資格取得」
すべてが因果関係で説明され、パッケージ化され、消費されていきます。
しかし、私が体験しているヨガは、そんなにすっきりしたものではありません。
「なぜ、ただ座っているだけで涙が出るのか?」
「なぜ、呼吸をするだけで、自分と世界との境界線が消える感覚になるのか?」
「なぜ、何もしない時間が、これほどまでに満たされるのか?」
解剖学や生理学で説明できる部分もあるでしょう。
しかし、その説明を聞いてもなお、体験そのものが持つ圧倒的な「謎」は消えません。
むしろ、知れば知るほど、生命というシステムの精緻さ、宇宙の広大さに言葉を失い、「わからない」という感覚が深まっていくのです。
わからないまま、ただそこに居る
ヨガ(Yoga)の語源は、ユジュ(Yuj)=「結ぶ」です。
個人の魂(アートマン)と、宇宙の魂(ブラフマン)を結ぶこと。
そう定義するのは簡単ですが、実際に「宇宙と繋がる」とはどういうことでしょうか?
頭で理解しようとすると、思考はすぐにショートします。
だから、身体を使います。
言葉の届かない領域へ、呼吸という舟に乗って漕ぎ出すのです。
アーサナ(ポーズ)をとっている時、私たちは自分の身体と対話しています。
「今日は股関節が重いな」「右の背中が強張っているな」
その対話の中に、嘘はありません。
理屈もありません。
ただ、生の感覚があるだけです。
「よくわからないけれど、気持ちがいい」
「よくわからないけれど、何かが整った気がする」
この「よくわからないけれど」という部分にこそ、理性を超えた叡智が宿っているように思うのです。
言葉で定義できない領域(空)に触れること。
それは、意味や目的でガチガチに固められた現代人の心に、風穴を開けるような体験です。
効率主義への静かな抵抗
「何のためにやっているの?」と聞かれると、答えに窮することがあります。
健康のため? 精神安定のため?
もちろんそれもありますが、それらは副産物に過ぎません。
目的がないこと。
生産性がないこと。
すぐに答えが出ないこと。
これらは、現代社会では「無駄」として切り捨てられます。
しかし、人生の本質的な喜びは、大抵この「無駄」の中にあります。
恋人と過ごす時間、美しい夕暮れを眺める時間、そしてヨガをする時間。
それらは、何かの役に立つから素晴らしいのではなく、それ自体が目的であり、喜びなのです。
「よくわからないから続ける」というのは、この効率至上主義に対する、ささやかで静かな抵抗でもあります。
損得勘定抜きで、ただその行為に没入する。
その純粋な没頭こそが、ヨガが目指す「サマーディ(三昧)」への入り口なのかもしれません。
神秘を受け入れる器としての身体
古代のヨギたちは、人体を「小宇宙(ミクロコスモス)」と呼びました。
私たちの内側には、外側の宇宙と同じだけの広がりと神秘があると考えたのです。
ナーディ(気道)を流れるプラーナ、チャクラというエネルギーセンター、クンダリニーという眠れる力。
これらは、現代科学のメスでは見つからないかもしれません。
しかし、実践を続ける中で、確かに「ある」と感じられる瞬間が訪れます。
その「ある」という感覚を大切にすること。
証明できなくても、誰かに説明できなくても、自分の感覚を信じること。
それは、自分自身への信頼を取り戻すプロセスでもあります。
私たちは、世界のすべてを解明する必要はありません。
「わからない」ということを、「不安」ではなく「神秘」として受け入れること。
未知なるものに対して、謙虚に頭を下げること。
ヨガの練習の終わりに合掌(アンジャリ・ムドラ)をするのは、その神秘への敬意の表れだと私は感じています。
探求は続く、終わりのない旅
だから、私は今日もヨガをします。
何かが「わかる」ためではなく、「わからない」という広大な海に浮かぶために。
昨日と同じ太陽礼拝を繰り返しながら、昨日とは違う風を感じるために。
もし、あなたが「ヨガをしてもよくわからない」「効果が感じられない」と悩んでいるなら、安心してください。
その「わからなさ」こそが、あなたが深い領域に足を踏み入れている証拠かもしれません。
答えを急がず、結論を出さず、ただその「わからない」感覚と共に座ってみてください。
その保留された時間の中に、本当の安らぎが待っています。
この縁側で、一緒に首を傾げながら、わからないままのお茶を飲みましょう。
それだけで、十分に豊かなのですから。
ではまた。


