【以下はフィクションです】
3年前の僕は、典型的な「仕事人間」だった。朝は誰よりも早く出社し、夜は終電間際までオフィスに残り、休日もPCを開く。それが当たり前で、それがデキる大人の証だと信じて疑わなかった。手帳はびっしりと埋まり、多くの仕事を抱えていることに、一種のプライドすら感じていた。
でも、心の中はいつもザワザワしていた。常に何かに追われ、頭の中はタスクでいっぱい。食事はデスクで5分。友人の誘いも「忙しいから」と断り続け、気づけば誰からも連絡が来なくなっていた。ある満員電車の朝、突然息が苦しくなり、その場にうずくまってしまった。身体が、心が、悲鳴をあげている。その時、ようやく僕は悟ったんだ。「このままじゃ、ダメだ」と。
第1章:ヨガマットの上が教えてくれた「今、ここ」の感覚
藁にもすがる思いで始めたのが、近所の小さなヨガスタジオだった。身体が硬い僕にとって、最初のうちはポーズをとるのも一苦労。でも、インストラクターの「呼吸に意識を向けて」という言葉に従って、ただ吸って、吐いてを繰り返しているうちに、不思議な感覚が訪れた。
あれほど頭の中を支配していた仕事の悩みや、未来への不安が、すーっと消えていく。聞こえるのは自分の呼吸の音と、身体のきしむ音だけ。そこには「今、ここ」の自分しかいなかった。生まれて初めて、僕は「思考のスイッチを切る」という体験をしたんだ。
週に一度のヨガは、僕にとって聖域のような時間になった。マットの上で自分の身体と向き合ううちに、今までいかに自分の身体を酷使し、その声を無視してきたかに気づかされた。肩はガチガチに凝り固まり、呼吸は浅く、常に緊張状態にあった。「ごめんな、僕の身体」。自然とそんな言葉が漏れた。
第2章:部屋のガラクタと一緒に捨てた「〜ねばならない」という思い込み
ヨガで心身が少しほぐれてきた頃、僕は「ミニマリズム」という言葉に出会った。部屋を見渡せば、いつか使うだろうと溜め込んだモノ、見栄で買った服、読まれていない本で溢れかえっていた。この散らかった部屋が、僕の頭の中そのものだと感じた。
週末、僕はゴミ袋を片手に、モノの「断捨離」を始めた。一つひとつ手に取り、「今の自分に本当に必要か?」と問いかける。最初はためらったけれど、一つ手放すごとに、心が軽くなっていくのがわかった。
そして、気づいたんだ。僕が捨てていたのは、モノだけじゃない。「こうあるべきだ」「〜ねばならない」という、自分を縛り付けていた思い込みだったことに。長時間働くべきだ。たくさんのモノを持つべきだ。常に生産的であるべきだ。そういった社会のプレッシャーや他人の価値観を、僕は自分のものだと勘違いしていたんだ。
ガランとした部屋で深呼吸をした時、僕は本当の意味で自由になれた気がした。
第3章:実験としての「3〜4時間労働」の始まり
心と空間に余白が生まれた僕は、一番の課題だった「働き方」にメスを入れることにした。いきなり会社を辞める勇気はなかったから、まずは自分の中で「1日3時間で、昨日までの8時間分の成果を出す」という実験を始めた。
ヨガで学んだ集中力と、ミニマリズムで学んだ取捨選択のスキルを総動員した。朝一番、最も重要なタスクを3つだけ選び、それ以外はやらないと決める。スマホの通知は切り、25分集中して5分休むサイクルを繰り返した。
最初は不安だった。周りはまだ働いているのに、自分だけ早く切り上げていいのか。でも、驚いたことに、成果は以前とほとんど変わらなかった。いや、むしろ集中力が高まった分、アウトプットの質は上がっていたかもしれない。僕が8時間かけてやっていた仕事の半分以上は、ただの「やっているフリ」や、重要でない作業だったんだ。
エピローグ:僕の新しい「普通」
実験を始めて1年後、僕は独立し、フリーランスになった。今の僕の仕事時間は、1日平均4時間ほど。午前中に集中して仕事を終え、午後はヨガをしたり、本を読んだり、縁側でのんびりお茶を飲んだりして過ごす。
収入は会社員時代より少し減ったかもしれない。でも、幸福度は比べ物にならないくらい高い。時間に追われるのではなく、時間を味わう毎日。自分の心と身体の声を聞き、本当に大切なものだけに囲まれて暮らす。
長時間労働に疲弊していたあの日の僕に、今の僕が会えたなら、こう言うだろう。「大丈夫だよ。豊かさは、時間の長さやモノの数じゃない。心の静けさと、余白の中にこそあるんだ」と。もし、あなたがかつての僕と同じように苦しんでいるなら、思い出してほしい。捨てることは、何かを得るための、最もパワフルな方法なのだということを。


