私たちの意識は、まるで手綱を放された暴れ馬を御する御者のようです。五頭の馬、すなわち五つの感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)は、それぞれが興味を惹かれる対象を見つけるやいなや、好き勝手な方向へと馬車(私たちの身体と心)を引っ張っていきます。美しい景色、心地よい音楽、美味しそうな匂い、魅力的な広告、SNSの通知音…私たちは絶えず外部からの刺激に引きずられ、一瞬として心の平穏を保つことができません。この状態は、いわば「感覚の奴隷」となっている状態です。ヨガの八支則における第五段階、プラティヤハーラが目指すのは、この主従関係を逆転させ、私たちが「感覚の主人」となることです。
プラティヤハーラは、しばしば「感覚の制御」あるいは「制感」と訳されますが、これは感覚を無理やり抑圧したり、外界から完全に遮断したりすることを意味するものではありません。それは拷問のようなものであり、ヨガの道とは相容れません。プラティヤハーラの真意は、感覚器官そのものをコントロールするのではなく、感覚器官を通して入ってくる情報に対して、心がどう反応するか、その主導権を握ることにあります。例えるなら、家の扉を開けておくか閉めておくかを、自分で自由に決められるようになる、ということです。必要な情報や美しい体験は招き入れ、心を乱すだけの不必要な刺激は、静かに扉を閉じて受け流す。その選択の自由を取り戻すことが、感覚の主人となるということなのです。
現代社会は、私たちの注意を奪い合うことで成り立っていると言っても過言ではありません。広告、メディア、テクノロジー企業は、人間の脳科学を徹底的に研究し、いかにして私たちの感覚をハッキングし、注意を引きつけ続けるかを競い合っています。私たちは、気づかないうちに、彼らのゲームの駒となり、貴重な生命エネルギーであるプラーナを、次から次へと吸い取られているのです。スマートフォンを手にすれば、数時間はあっという間に過ぎ去り、後には奇妙な疲労感と空虚感だけが残る。そんな経験は誰にでもあるでしょう。これは、まさに感覚が主人となり、私たちが奴隷となっている典型的な姿です。
感覚の主人となるための稽古は、日常生活のあらゆる場面で行うことができます。
まず、一つのことに集中する訓練から始めましょう。食事をする時は、テレビやスマートフォンを消し、ただ食べるという行為にすべての意識を向けます。食べ物の色、形、香り、食感、そして味わいを、まるで初めて体験するかのように丁寧に観察するのです。これは「食べる瞑想」とも呼ばれ、味覚と嗅覚、視覚を意識の支配下に置く素晴らしい練習となります。
同様に、誰かと話す時は、相手の言葉と表情に全身全霊で注意を向けます。次に何を話そうかと考えたり、他のことに気を取られたりせず、ただ「聴く」に徹する。これは、聴覚と思考を制御する訓練です。
道を歩く時は、イヤホンを外し、周囲の音や風の感覚、足の裏が地面に触れる感触を意識します。これは、私たちをバーチャルな世界から、今ここにある身体的な現実へと引き戻してくれます。
これらの実践を続けていくと、私たちは、刺激と反応の間に「スペース(間)」が生まれることに気づきます。今までは、刺激があれば即座に、自動的に反応していました。しかし、稽古を積むことで、その間に「選択する」という自由が生まれるのです。SNSの通知が来ても、すぐにタップするのではなく、「今は見ない」という選択ができるようになる。魅力的な広告を見ても、衝動的にクリックするのではなく、「これは本当に私に必要なものか?」と一呼吸おいて考えることができるようになる。この小さな選択の積み重ねが、私たちを感覚の奴隷から解放し、真の自由へと導きます。
引き寄せの法則の観点から見ても、感覚の主人となることは極めて重要です。なぜなら、私たちの現実は、私たちが何を意識し、何にエネルギーを注ぐかによって創造されるからです。感覚に振り回されている状態では、私たちの意識のエネルギーは無秩序に拡散し、望まない現実を無意識のうちに引き寄せてしまいます。しかし、感覚の主人となり、自分の意識の焦点を意図的にコントロールできるようになれば、私たちは望む現実に意識を合わせ、その創造を加速させることができるのです。
手綱をしっかりと握りしめ、五頭の馬を巧みに操る御者のように。あなたは、自分の意識という馬車の行き先を、自分で決めることができるのです。外側の世界の喧騒に惑わされることなく、内なる静かな目的地へと、まっすぐに進んでいく。それこそが、感覚の主人として生きる、力強く、自由な生き方なのです。


