私たちは、コンクリートとアスファルトに囲まれ、空調の効いた箱の中で一日の大半を過ごすうちに、ある重大な真実を忘れかけてはいないでしょうか。それは、私たち人間もまた、紛れもなく自然の一部であるという、身体的で根源的な事実です。ヨガの叡智は、この断絶された感覚を再び繋ぎ直し、自然という偉大な師の教えに耳を澄ますよう、私たちを優しく促します。なぜなら、自然界のあらゆる現象は、私たちが求める調和、バランス、そして引き寄せの法則そのものを、静かに体現しているからです。
東洋思想、特に道教においては、「無為自然」という概念が中心にあります。これは、「何もしないことで、すべてが為される」という逆説的な真理を示唆します。森の木々を見てください。彼らは「もっと高く伸びよう」と力んだり、「隣の木より美しくなろう」と競ったりはしません。ただ、与えられた場所で天に向かって伸び、地に深く根を張り、太陽の光を受け、雨水を吸い上げる。そのあるがままの姿で、森全体の生態系という完璧な調和を創り出しています。川の流れもまた然り。障害物があれば、それを無理に破壊しようとはせず、しなやかに迂回し、形を変え、やがては海という大きな全体へと還っていきます。
この自然の在り方は、引き寄せの法則を実践する上での、極めて重要なヒントを与えてくれます。私たちはしばしば、願いを叶えようと必死に「努力」し、抵抗や障害にぶつかると、力ずくでそれを乗り越えようとします。しかし、自然は私たちに、流れに逆らわないこと、抵抗を手放すこと、そして、ただ「在る」ことの力強さを教えてくれます。
ヨガのアーサナ(ポーズ)の多くが、山のポーズ(タダーサナ)、木のポーズ(ヴリクシャーサナ)、犬のポーズ(アドームカ・シュヴァーナーサナ)など、自然界の存在から名付けられているのは決して偶然ではありません。アーサナを実践することは、単なる身体のストレッチではなく、その存在の「質」を自らの身体を通して追体験する試みなのです。山のポ少しも動じない安定感を、木のポーズで天と地を繋ぐ生命力を、私たちは身体で学びます。これは、頭で理解する知識ではなく、細胞レベルで刻み込まれる「身体知」です。
また、古代インドの哲学では、宇宙のすべてはパンチャ・マハーブータ、すなわち五つの偉大な元素(地、水、火、風、空)から構成されると考えられています。私たちの身体もまた、この五大元素の小宇宙です。自然との対話は、この内なる元素と外なる元素を共鳴させ、バランスを取り戻すプロセスに他なりません。
裸足で大地を歩く「グラウンディング」は、地の元素と繋がり、心に安定をもたらします。川のせせらぎや波の音に耳を傾けることは、水の元素を癒し、感情の流れをスムーズにします。朝日を浴びることは火の元素を活性化させ、生命力を高め、森の中で深呼吸することは風の元素を取り込み、思考を明晰にします。そして、広大な空を見上げることは、空(くう)の元素、すなわち無限の可能性のスペースと私たちを繋げてくれるのです。
今日からできる、自然との対話の実践は無数にあります。
まず、五感を解放すること。公園を散歩する時、イヤホンを外し、鳥の声、風が葉を揺らす音、土の匂い、木漏れ日の暖かさを、全身で感じてみてください。道端に咲く一輪の花に意識を向け、その完璧な形と色彩を、まるで初めて見るかのようにじっくりと観察してみましょう。その花は、誰かに見られるために咲いているのではありません。ただ、その生命を完全に表現しているだけです。その在り方こそが、究極の自己実現であり、美しさの源泉です。
ほんの少し、量子力学的な視点を加えるなら、自然は特定の周波数で振動しており、その周波数が私たちの心身に同調し、癒やしをもたらすとも言われています。しかし、そのような科学的な説明を抜きにしても、私たちは直感的に、森の中にいると心が安らぎ、海を眺めていると悩みがちっぽけに感じられることを知っています。
自然は、私たちに何も要求しません。ただ、そこに在り、その豊かさを惜しみなく与え続けてくれます。この無条件の愛と調和の法則を肌で感じること。それが、私たち自身の内なる自然、つまり、ありのままで完璧な自己を思い出し、世界との調和の中で軽やかに生きていくための、最も確かな道標となるでしょう。


