私たちは、瞑想という実践の旅路を、一つの目的地を目指す旅のように考えがちです。その目的地とは、「心の静寂」「ストレスの軽減」「集中力の向上」、あるいは「望む現実の引き寄せ」といった、何らかの「獲得すべき成果」です。そして、その成果を得るために、「うまく瞑想しよう」「正しく実践しよう」「心を無にしよう」と、私たちは努力します。しかし、ここに、瞑想における最も深遠で、最も捉え難いパラドックスが潜んでいます。
それは、「瞑想しよう」という思い、何かを達成しようとするその意図そのものが、実は本当の瞑想、すなわちディヤーナの境地を妨げる、最後の、そして最大の障壁である、という事実です。
この現象は、私たちの日常経験にも見出すことができます。例えば、夜、眠りにつこうとする時。「眠らなければ」と焦れば焦るほど、意識は冴えわたり、心はざわめき、眠りは遠のいていきます。眠りは、私たちが「眠ろう」という努力を手放し、身体の自然なプロセスに身を委ねた時に、初めて「訪れる」ものなのです。
瞑想も、これと全く同じ構造を持っています。「心を静めよう」という思考は、それ自体が新たな思考であり、心の水面を波立たせる小石に他なりません。静寂は、静寂を「作ろう」とすることで得られるものではなく、波立てることを「やめた」時に、自ずと現れてくる、心の本来の性質なのです。
この段階は、瞑想を何かを得るための「手段」として捉えることから、完全に自由になるプロセスを意味します。これまで必死に追い求めてきた、静寂、悟り、至福、引き寄せの力…そういった目的意識の一切を手放す。ゴールテープを目の前にして、走ることをやめてしまうような、ある種の勇気が試されます。
この視点の転換は、瞑想が「する(doing)」ものではなく、「起こる(happening)」ものである、という理解へと私たちを導きます。私たちの仕事は、何かを達成することではありません。ただ、快適で安定した姿勢で座り、身体をリラックスさせ、呼吸の自然な流れに気づいていること。つまり、瞑想が「起こる」ための、適切な「場」を整えることだけです。あとは、大いなる流れに、ただただ、委ねる。種を蒔き、水と光を与えたら、あとは発芽のプロセスを自然に任せる農夫のように。
この在り方は、東洋思想、特に道教における「無為自然」の哲学と深く共鳴します。人為的な計らいや、目的達成のための小賢しい策略をやめ、宇宙の根本的な流れである「道(タオ)」に身を任せる。そうすることで、万事は最も調和の取れた形で、自ずから成っていく、という考え方です。行為者は「私」ではなく、私を通して働く、より大きな宇宙の力そのものなのです。
この理解は、引き寄せの法則の奥義とも言える領域へと私たちを誘います。「これを引き寄せたい」という強い欲望は、しばしばその裏側に「私はまだこれを持っていない」という、強力な欠乏の波動を伴います。この欠乏感が、逆説的に、望むものが遠ざかる現実を創り出してしまうのです。
しかし、「瞑想しよう」という思いすら手放した、完全な委ねと受容の状態にある時、私たちは「引き寄せたい」という欠乏のエネルギーからも解放されます。それは、近年注目される「トランサーフィン」のモデルで語られる、「重要性を下げる」という概念にも通じるでしょう。願望を宇宙に放ったら、あとはその結果に執着せず、忘れてしまうくらいの軽やかさ。その時、エゴの抵抗は消え去り、宇宙は最もスムーズに、あなたの意図を現実化させることができるのです。究極の創造は、究極の「何もしない」ことから始まる。これこそが、瞑想が教える、最も深遠な秘密の一つです。


