「行為者としての私はいない」という深淵な理解に至った時、私たちの心には次なる問いが生まれます。もし、この世界で起きる出来事の主体が小さな「私」ではないのだとしたら、この喜びや悲しみ、成功や失敗に満ちた複雑な世界は、一体何のために存在するのでしょうか。なぜ、かくも多様で、劇的な現象が繰り広げられているのでしょうか。
この問いに対し、古代インドの賢者たちは、息をのむほど壮大で、詩的な答えを用意しました。彼らは、この宇宙のすべての現象を「リーラ(Lila)」と呼びました。リーラとは、サンスクリット語で「遊び」や「戯れ」を意味する言葉です。宇宙の唯一絶対の根本原理である「ブラフマン」が、何かの目的や必要性のためではなく、ただ純粋な喜びから、自らを無数の名前と形を持つ現象世界として展開し、遊んでいる。それが、この世界の正体だというのです。
これは、目的論的な世界観からの解放を意味します。私たちはつい、「人生の目的は何か」「この苦しみにはどんな意味があるのか」と、すべての出来事に意味やゴールを求めてしまいます。しかし、リーラの思想は、それらすべてが絶対者による神聖なゲームなのだと教えてくれます。子供が砂浜で城を作り、波が来ればそれが壊れるのを知りながらも、その創造と破壊のプロセスそのものを無心に楽しむように。ブラフマンもまた、星々を創造し、生命を育み、そしていつかはそれらを解体していく。そのすべてが、絶対的な視点から見れば、深刻さのない、ただ美しい戯れなのです。
この世界観は、私たちの日常に軽やかさと広大な視野をもたらします。あなたが今、直面している困難や悩み。それは、リーラという壮大な演劇における、あなたに与えられた一つの役に過ぎないのかもしれません。悲劇のヒロインを演じている時も、コミカルな役を演じている時も、その役柄と自分自身を完全に同一化する必要はないのです。舞台袖に下がれば、あなたは役者であり、さらにその奥には、すべてを観照している静かな意識(アートマン)が存在します。この視点を持つことで、私たちは人生のドラマに溺れることなく、それを味わい、楽しむ余裕すら生まれてくるでしょう。
荘子の「胡蝶の夢」の物語も、このリーラの思想と響き合います。荘子が蝶になった夢を見たのか、蝶が荘子になった夢を見ているのか。現実と夢の境界は曖昧であり、この存在そのものが一つの大きな夢、戯れである可能性を示唆しています。
引き寄せの法則を実践する上でも、このリーラの感覚は極めて重要です。多くの人が引き寄せに失敗するのは、願いに過剰な「重要性」を乗せてしまうからです。「これが手に入らなければ、私の人生は終わりだ」というような深刻さは、宇宙の軽やかな流れの中に重たい錨を下ろすようなもの。それは抵抗となり、かえって望む現実を遠ざけます。
しかし、もしあなたの願いが「この壮大なゲームの中で、こんな役を演じてみたい」「こんなステージを体験してみたい」という、遊び心に満ちた意図であるならばどうでしょうか。結果に執着せず、そのプロセスそのものを楽しむ。うまくいっても面白い、うまくいかなくても、それもまた一興。この軽やかな在り方こそが、宇宙の創造的なエネルギー(シャクティ)と最もスムーズに共鳴するのです。
人生のすべてが、大いなる意識による愛に満ちた戯れであると知る時、私たちは失敗を恐れず、他者を裁かず、あらゆる経験を祝福することができるようになります。喜びのダンスも、悲しみのブルースも、すべては宇宙のオーケストラが奏でる美しいシンフォニーの一節。さあ、舞台に上がって、あなただけのユニークなダンスを、心ゆくまで踊りましょう。


